人のいない部屋に、ノックして入るわけ
コンコンコン、「おーい、入るからね」。
うちはふたり家族だが、ふたりとも居間にいるときでも、別の部屋に行くときにはドアをノックしたり、声をかけたりしてから入る。
ほかに小さな住人がいるからだ。
「あっ、ごめん! ごめんよ、悪かったなあ」
台所から夫の済まなそうな声がする。
このところ、ガス台の辺りに小さなやもりがときどき現れるのだが、気づかずに鉢合わせして、びっくりさせてしまうのだ。
集合住宅に住んでいるのでペットは飼えないけれど、我が家はふたりともどうぶつが好きだ。
やもりはできるだけ長くうちにいてほしいお客さんなので、怖がらせないように気をつけている。
ただ、残念なことに扉にも天井にも隙間が多いので、やもりの住人は入れ替わりが激しい。
しばらく姿が見えないときは、たいていどこかに引っ越していて、ふたりでがっかりしている。
ある時期うちに住んでいたやもりは、バッハがお気に入りだった。
バッハの曲を聴いていると、どこからともなく現れて散歩を始めるのだ。
晩ごはんのとき、例によって夫が「あいつ、どこだろ」と遊び相手にやもりを探すので、「バッハをかけると出てくるよ」と言ったら、「そんなばかな!」。
その日聴いていたのは、モーツァルトとチャイコフスキーだった。
半信半疑の彼が「無伴奏チェロ組曲」をかけると、しばらくして天井からしっぽがチョロリ。
そのうち顔を出したやもりが、機嫌よく壁を走り始めた。
「ほらね、言った通りでしょ」
「!!!」
わたしたちはときどき旅行に出かけるから、長めの留守をすることがある。
「僕らがいないあいだ、バッハが聴けなくて悪いよね」
「ステレオをエンドレス再生にしておく? 空き巣対策にもなるかもね」
「でもさ、帰ってきたら部屋にやもりがいっぱい集まっていたら困るよ。うちがコンサート会場になっていたりして」
宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』では、主人公ゴーシュの弾くセロ(チェロ)の音色に誘われて、森のどうぶつたちが訪ねてくる。
あれは、もしかしたら実話なのではないかと思うことがある。
わたしもチェロを習ってみようかな。