時間の感覚と文化の狭間
バスの通過時間がわからない停留所
あるとき、クアラルンプールに住む日本人の友人たちと待ち合わせをしたところ、約束の時間より前に全員がそろい、「やっぱり日本人だよね」と誰かが言って大笑いになりました。学校教育の影響なのか、時間に遅れないようにする、という感覚はある程度共有されているのではないでしょうか。
日本に旅行したことのあるマレーシアの人に話を聞いても、
という感想がよくあります。裏を返せば、マレーシアではそうではないことが多い、ということでしょう。
自宅に近い路線バスの停留所には通過時刻が書いていません。そこで、窓から家の前の道路を眺めて、3日がかりで時刻表を作ってみました。バスが営業所を出発する時間は決まっているはずですが、そのときの観察では、記録してある前日の時間より10分程度早く来ることもあれば、30分くらい遅いこともよくありました。
だから、バス停でバスを待つときには、その日その時間に道路が混んでいるかどうか、あるいは他に待っている人がいるかどうかを少し気にしていないと、空振りに終わることもときどきあります。
ただ、マレーシアに限りませんが、東南アジアでは、バスや電車が来ない、遅れていることでいらいらしている人は案外少ないように感じます。多少急いでいるならタクシーを使うでしょうし、そうでなければ、悠揚迫らずというか、携帯電話で誰かとメッセージをやりとりするなり、音楽を聴くなりしている様子です。
電車やバスが定刻に来るのは確かに便利なことですが、予定通りに物事が進むべき、あるいは進むはずと思っていると、そうでない状況下は結構ストレスを感じるものではないでしょうか。外国生活で慣れないことのひとつに「時間通りに物事が進まないこと」がよく挙がりますが、これには出身文化で育まれる耐性の違いがありそうな気がします。
現実は、常に予定通りに進むわけではない
クアラルンプールで、とある多国籍企業の会見に出かけたら、告知より1時間以上遅れて始まったことがありました。わたしは、遅れないように早めに会場入りしていたために、それよりさらに待つ時間が長くなり、開始時間を間違ってメモしたのだろうかと慌てたことがあります。
後で聞くと、報道発表や記者会見で、そのくらいの遅れは珍しくないそうで
と言われました。仮に十分に所要時間をみて会社を出たとしても、渋滞に引っかかるかもしれないし、大雨が降るかもしれないし、車が故障するかもしれなしひ、時間通りに到着できるかどうかはわからないと言うのです。なるほど。
そういえば、地元の国立大学のコースに通っていたときのこと。遅れてきた他国の留学生たちが
という具合に親しいクラスメートにあいさつして、ひとりひとりと握手しているのを毎日のように見かけました。もう授業が始まっているにもかかわらず。
留学生たちが丁寧にあいさつを交わしていると、他の学生たちの注意もそれてしまい、その間授業は中断するわけですが、マレーシア人の講師も、遅れて来た学生が席につくのをじっと待っている風なのに驚きました。
「単一的時間」と「多元的時間」
文化人類学に「Mタイム」「Pタイム」という言い方があります。「単一的時間」と「多元的時間」のことで、時間のとらえ方は文化や人によって違うことを説明するときに用いられます。
「単一的時間」(monochronic time)
時間軸はひとつで、時間に正確。効率よく物事を進める。
「多元的時間」(polychronic time)
複数の時間軸をもち、そのとき優先すべきことによって変わる。
前段の国立大学のクラスの留学生たちの行動は「Pタイム」寄りで、授業の時間軸だけでは考えないので、遅れて入ってきても人間関係を重視し、丁寧にあいさつを交わすわけです。
遅れて来た留学生によって授業が中断することを不思議に思ったわたしは、(この場面では)「Mタイム」寄りです。授業の時間軸を優先するので、クラスの友達にその日初めてそこで会っても目礼や会釈で済ませ、「Pタイム」型からは、なんだか冷たい印象をもたれたのかもしれません。
文化圏としては日本は完全な「Mタイム」型ではありませんが、日本の人には目的に合わせて行動をとる、時間を守ることを重視する傾向はあるような気がします。
前回のリレーエッセイでネルソン水嶋さんが「日本人の計画性」の歴史的背景について考察されていますが、「昨日と同じ今日」ではないところでは、前提条件が違うために、その場その場での臨機応変な状況対応能力が一層鍛えられそうな気がします。
ことに2011年の東日本大震災のような規模の災害や、昨今の新型コロナウイルスの感染症の流行のような、常ならぬ状況下では。
そして、計画性に重きを置くのか、状況を見て臨機応変に動くのかというときに、時間軸の考え方も関係がありそうに思うのですが、どんなものでしょうか。
世界各地に住むエッセイストたちが綴る「自分は日本人だなと思った話」、それぞれの視点・経験が伝わってきて面白く読みました。
一口に日本と言っても、地域によっても人によっても、いろいろな違いはあるわけで、「日本人だから~」とは言い切れないことも多いはず。
それでも、それなのに「日本人だなと思った」のは、そんな差異が小さく思えてしまうほどの大きな違いに出会ったからなのでしょうね。もしかしたらこの先、どこかの惑星の住人と接する機会ができたら、「自分は地球人だな」と思うこともあるのかもしれませんが。
リレーエッセイ企画「日本にいないエッセイストクラブ」、次のエッセイストはがぅちゃんさんです。前回の投稿はこちら。
なんとまあ、美味しそうなものがたくさんあることか。私自身はイスラエルに行ったことはないのですが、訪問経験のある友人が複数いて、多面体の面白さを伝え聞いて興味をもっていました。
お住まいになっている間に200軒の飲食店で食事をされた、がぅちゃんさんが選ぶ「最も美味しかった料理10品」、意外なものが登場しています。
わたしの投稿が遅れてしまいましたが、がぅちゃんさん、バトンをお渡ししますので、どうぞよろしくお願いします。
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