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子育ての身体的負担 vs 精神的負担

二人の子どもを大学生になるまで育てて来て、つくづく思うことは、子どもが小さい頃は身体的に大変だったけど、大きくなったら精神的に大変になったということ。

小さかった時は、常に子ども達の世話で忙しくて、とにかく時間がなくて、身体的に疲れ切っていた。もっと大きくなれば楽になる、といつも思っていた。自分で歩けるようになったら、トイレに行けるようになったら、着替えられるようになったら、一人でお風呂に入れるようになったら、宿題ができるようになったら、運転ができるようになったら、などなど。

大きくなるにつれて、手のかかることが減って行き、実際にすべて自分でできるようになったら、確かに肉体的、時間的には楽になったけど、今度は心配事がどんどん出てきた。勉強のこと、スポーツのこと、友人関係、彼氏・彼女との関係、などなど。私の子ども達は大きくなってから発達障害と精神障害を発見したから、精神的な負担がより大きいかもしれないけど、きっとそれがなくても心配事はたくさんあっただろう。

そして、夫とよく話すのが、身体的な負担の方が精神的な負担よりもよかった、ということ。子どもが小さいうちは、子どもの安全のためにやることや行く場所を制限できたし、基本的にいつも一緒だから、不安があまりなかった。大きくなったら、一人で行動できるようになる分だけ、目が届かなくなって不安だらけ、心配だらけ。

特に印象に残っているのが、息子が一人で車の運転を始めた時のこと。部活仲間で集まるパーティが友達の家であって、息子に一人で運転して行かせることにした。車で30分弱の行ったことのない場所だけど、何とかなると信じて。娘も同じ部活だったので、先に友達とパーティに行っていた娘を帰りに乗せて、一緒に帰ってくるという手はずだった。当時はスマホはまだなくて、外付けのカーナビとガラケーを頼りに息子は出かけた。心配だけど、子ども達がそろっていない夜なんて珍しいし、せっかくだから私達も外食しよう、デートだ、と喜んで、夫と二人で近所のメキシコ料理のレストランに行った。

着いたら電話して、と息子に言っていたのに、30分以上経っても電話がない。運転中に電話して邪魔はしたくないから、大丈夫かな?迷ったら、どこかで車を停めて電話してくるよね?などと話しながら、メキシコ料理を注文。でも、電話がないので、段々と不安になって来た。電話し忘れてるんじゃない?ということで、娘の方に電話して、息子が到着しているか聞いてみたけど、まだとのこと。意を決して、息子にも電話したけど、出ない。

二人とも、もうごはんを食べるどころでも、おしゃべりするどころでもなくなって、電話を見つめて無言でずっと座っていた。そして、もう帰ろう、と暗い雰囲気のまま立ち上がり、家に帰った。まだ息子から電話は来ない。一人で行かせるのはまだ早かったかもしれない、事故に合ったのかもしれない、と不安がどんどん膨れ上がる。

家に着いてから、祈るような気持ちで、もう一度、娘に電話してみると、あっさり「来たよ。」息子の方にも電話してみると、電話するの忘れてた、途中で迷って時間がかかった、とのことだった。大きな安堵と、電話し忘れた息子への腹立ちと、でもさらに帰り道への不安もまだあって、その夜は生きた心地がしなかった。まったくデートどころじゃない。

結局、二人は無事に帰って来た。息子は、助手席に座ろうとした娘を危ないからと言って、運転席の後ろの席に座らせて帰って来たらしい。その話を聞いて、意外と慎重な息子を笑いながらも、たくましく思った。

その後にも、もっと大きな心配事は色々あったけれど、あのメキシコ料理店とそこからの帰り道、夫との無言の時間が、不安と心配に押しつぶされそうだった親の気持ちを象徴している気がする。身体的負担の方が精神的負担よりもよかった、と夫と話し合うたび、あの時間を思い出す。もうあんな思いはしたくないけど、親である限り、この精神的負担は続くのだろう。

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