⑩2001年ユーラシアの旅 (陸路一周): インドからアジア横断1
前回簡単にいきさつを書いたが、ユーラシア横断の後は王道のアジア横断を行うために、仕切り直してイスタンブールからインド・デリー入りをした。
インドは外せないキーポイントである。
90年代後半の頃、『危ない1号』という、名物編集長・青山正明は後年自殺、寄稿していた有名鬼畜ライター・村崎百郎はめった刺しで殺害されるという、今では発禁になっていてもおかしくないディープなアングラ雑誌が、最初に述べたヴィレヴァンに売られていた。
世紀末にハイティーンの時代を過ごした私は、この雑誌のインドを含むハチャメチャな情報に惹かれ、高校生の頃からいつかディープなインドに行きたいと思っていたのだ。
インドにはこの後2016年までに合計7回渡航し、通算2年ほど滞在していた。また大学時代は専攻の法律よりよほどインド文化について勉強し、第二外語のロシア語よりヒンディの方がまだ喋れるという有様でハマっていた。
最初こんなところ二度と来るか!と思ったのにまた来てしまうのは、インドのお約束である。しかし本当に二度と来ない人たちも実際いる。
デリーの空港を一歩出ると、早速お出ましの黒だかりのタクシー運転手どもに囲まれる(お約束)。叫びながら振り切りに振り切って、なんとかローカルバスを探し、ドアも窓もないボロボロの市バスで土埃をあげながらニューデリー駅へ向かった。道中死んでいるのか生きているのか分からない倒れている人間や餓死している犬がいて、「噂どおりのインドや…」と早速インドの洗礼を受けていた。
(その後後年は、死んでいる…かも??なレベルの人が道端に転がっているのに出くわすことはまずなくなり、デリーは年々綺麗に?なっていっているが、2016年には大気汚染をナメていたら肺が死にかけた。インドはやはり恐ろしい。)
なお私は貧乏旅行者だったので、タクシーやリキシャに乗らず、わき目も降らず絶対ローカルバス!と思っていたのだが、これは結果的に正解だった。
2000年台初頭、デリーでは宿に着くまでにリキシャなどに拉致られて宝石店や旅行会社などに軟禁される人が冗談みたいに多く、睡眠薬入りのチャイを出される話なども実際に聞く。
沈没していると3日に1回は盗難(バックパック丸ごとや身ぐるみ)または軟禁の目に合った人が宿に現れるので、本当に気を付けるに越したことはない(最近は地下鉄が走っているようであるが)。
空港からのバスでニューデリー駅の裏手の治安の悪いゾーンで降ろされる。そこではリキシャ(自動または足漕ぎの三輪車)運転手に四方を囲まれ、バックパックを掴まれながらもブチ切れながら振り切って、さっぱりどの方向か分からないけれど突き進み、バックパッカー御用達の安宿街「パハールガンジ(メインバザール)」を目指した。実はニューデリー駅前にあるのだが、土地勘がなく裏手からだと囲んでくるインド人の攻撃もあって分かりにくい。
パハールガンジは中・上流のインド人には「あんなところ踏み入れるとかありえない!」と言われる、スラムとまでは言わないがいわゆる貧民街であり、商店の並ぶ未舗装の細い道にはたくさんの物乞い・手足のない人がスタンバイし、いつも人力リキシャ、牛、怪しい人たちでごったがえしている。
いわゆる「悪いインド人」(?)が多く、旅行者から非常に評判の悪いデリーだが、私はデリー滞在が毎回謎に長くて沈没していたので、パハールガンジにはたくさんの思い出がある。いくつか次回述べたい。
To be continued...
野宿出身、未だにおよそ野良ですが、まだサバイブしてます。