⑨2001年ユーラシアの旅 (陸路一周): さらば欧州 - 中欧からイスタンブールへ
さてこの時欧州30か国くらいを、列車に乗りまくり・泊まりこみまくりで回ったのだが、西ヨーロッパの旅はそれほどハプニングもなく面白くないので、簡単に流して中欧を南下する。
野宿生活のため風呂に入らなすぎて列車内では異臭騒ぎを起こし(列車の同じコンパートメントで仲良くなった香港人の若い旅行者たちが「……??なんか臭くね??腋スプレーしよ」となったのだが、原因は間違いなく私である。すみませんでした。)、フランクフルトではフランクフルトを食べ、フランスではスーパーのサンドイッチですら美味しいことに感動し、雑誌でしか見たことがなかった日本未上陸のH&Mで、当時は超お洒落だったへそ出し腰ばきのベルボトムのパンツを買い込んだ(最近お洒落なロンドンキッズの間で90sブームとしてリバイバルしているけど)。
スイスでは銀行員が鼻ピアスをしていることに驚き、オランダでは魚の酢漬けハリングを食べてさほど美味しくもなく、狭いアンネの家を訪れた後で、ポーランドでは当時は自由にうろつけた第一と第二のアウシュヴィッツで人間の脂肪でできた石鹸を見て恐れおののき、ハンガリーではバラトン湖の、おじさんたちがチェスをしている蓮の生えたぬるーーーい温泉湖に浸かり、プラハで王宮の丘に登って「百塔の街」はもっともな名称だと感心した。
ハンガリーとチェコはその後何度か行く機会があったが、物価が安めで治安も悪くなく、観光地でなくとも町がかわいいので中欧で一番お勧めなエリアである。
中欧を下るとルーマニアはそこかしこに恐ろしく感じの悪い、銃を装備した警察だか軍隊だかがいて言い争いになり、Fワードが炸裂しまくった。このときの印象が悪すぎてルーマニアは二度と行っていない。
ブルガリアでは久々にみるキリル文字があふれる、中欧 x ロシア x トルコミックスな不思議な空間が突然現れて面白かった。売っているものにもロシアからのものが多く、正教の濃い影響・つながりをみた。ブカレストでは世界遺産の教会を訪ねた…のだが、これがおそろしくガッカリ系で、世界遺産であることに逆に驚いた。
「世界遺産」というものが、実際の文化的価値とは別に、アメリカと仲良くすればもらえるご褒美のようなものであると知るのは何年も後のことである。
さて初期設定のルートでチベット越えをしてきた場合、アジア横断の終着点となるはずだったコンスタンティノープルことイスタンブールに、ブルガリアから電車で到着した。約1か月間お世話になりまくったユーレイルパスとトーマスクックの時刻表ともお別れだ。
初めてのイスラーム世界。
この1,2年後イスラーム神秘主義(スーフィー)にどっぷりはまり、アラビア語を大学の第三外国語として選択し、およそ入信しかけるところまで行くのだが、今から思えばイスラーム世界との出会いはイスタンブールだった。
ガイドブックに載っていた有名とかいうガラタ橋のサバサンド(骨だらけで素朴な味で、欧州から来たらもう一度食べたいほどではない)を食べ、小さなガラスカップに入った紅茶や青りんご茶をすすりながら、バザールを練り歩き、元教会と言われると納得するつくりのモスク・コンバージョンであるアヤ・ソフィアに感心したりして、高校で習った世界史を思い出した。
この時はイスタンブールしか行かず、トラブルは宿で、誰もいない大きなドミトリーに男性従業員が夜しつこく入ってこようとするくらいだった。
読んでくださった方がおられるかどうかは分からないが、ここまでが日本→中国→欧州編になる。
まさか数か月の大陸横断の予定が2か月程度になり、ごくあっさりと駆け足にユーラシア横断と欧州の旅は終了した。
さて、本稿はタイトルに「ユーラシア陸路一周」と銘打っているのだが、実はここで白状すると、イスタンブールから飛行機に乗った。
その後またイスタンブールまで陸路で戻ってきたので、全行程をつなげると陸路で一周となるので嘘ではない…と思う。
本で読んで一番楽しみにしていた憧れの「アジア横断」ルートは捨てがたく、また西より東から攻めるのが王道と思われたことと、トルコでイランビザの問題が発生したからである。
このため、次回はいきなりインド編になる。
To be continued...
野宿出身、未だにおよそ野良ですが、まだサバイブしてます。