心で知って、心で感じて、心で考える。7年前の作文。【長崎原爆の日】
毎年8月になると、なんだかソワソワします。
セミの鳴き声と
カンカン照りの太陽の下、
長崎を歩いた中3の夏を思い出すのです。
8月9日は、長崎原爆の日。
被爆者体験講話/作文
今から7年前、中3の8月
私は、平和学習を目的とした
市の中学生派遣事業の代表として、長崎に行きました。
平和公園や原爆資料館、平和の泉、防空壕などを訪問。
その中でも、被爆者体験講話は、
7年経った今でも鮮明に思い出すことができるほど、衝撃を受けた経験でした。
1週間は、
食事が喉を通らなくなるような感覚、
身も心も重い粘土になってしまったかのような感覚が消えなかった。
講話をしてくださったおじいちゃんが別れ際に、
「絶対に忘れたらいかん。誰でもいいから、誰かに伝え続けてください。そんで、今勉強できること、美味しいものが食べられることに感謝を忘れないでください。」
トーンの低い、少し震えた声で力強く、
私たちに懇願するかのように伝えてくださったのです。
この言葉と共に部屋を後にするおじいちゃんの後ろ姿が、すごく心に残っています。
ああ、私たちには伝える義務があるんだ
って強く感じた瞬間。
そして、その日に見た
日本三大夜景である長崎の夜景
すごく綺麗だったけど、
何とも不思議な夜景でした。
キラキラと輝く1つひとつの光は
先人が築いてきた血と汗、涙の結晶。
もっと、今あるこの環境に感謝しなきゃ
もっと、勉強して沢山のことを知りたい
素直にそう思えました。
事後学習として提出した作文
記録として残しておこう…
心で知って、感じて、考えて。
ここ数年、原爆に関するニュースや
ドキュメンタリー番組が
明らかに少なくなってきている気がします。
(『火垂るの墓』『はだしのゲン』もそうだし…)
小中高生も、「なんとなく事実としては知っている」状態の子が多いように感じたり…。
うーん。
何とも言えないけど、それってどうなのかと考えてしまったり。
「写真や映像が、恐怖感を与えるから子どもには良くない。」
でもそういう恐怖感こそ、大事なコトじゃないの?学習の本質的要素じゃないのかな?
と、私は思います。
(年齢制限的なものは設けて良いと思う。)
あれは良くない、これが良い。
と、大人が分別するのではなく、
子どもが自ら分別すればいいのでは?
大人はそのサポートに徹すればいいのでは?
って思ったり。
自分と同じ人間の変わり果てた姿
目を背けたくなる遺品や写真
なぜ、こうなってしまったの?と疑問を抱くこと。
頭であれがあった、これがあった、
と理解するだけでは足りない。
心で知って、感じて、考えて。
これができてはじめて、人の心って動くんじゃないのかな。
(全て私個人の考えです。)
それに、感じなかったら感じなかったで良い。
そうしようとしたことに意味がある。
もうその時点で、心で考えて動いているのです。
話がズレてしまったのか何なのか…
何を言いたいのか
分からなくなってきました〜^^
ということで、まとめ。
さいごに
作文にも書いてある通り、
学ぶ機会をいただけた身として、こうやって伝えていくことは義務だと考えています。
多くの人に伝える力はないけど、
今これを読んでくださっている貴方に、わたしの言葉が届いていればそれで良いんです。
そして、知って欲しいのはもちろんなんだけど、多分1番は自分のためです。
あの時感じた気持ちや
今出てきた言葉を忘れないために書いて、
これからこうしよう!って自分に宣言するため。
今ある環境と人に感謝しよう
こうやって振り返らないと、盲目になってしまう。
自分も含めて人は皆、
いつどうやっていなくなってしまうかなんて分からないしね
そして、
私は何事も
自分の目で見て、耳で聞いて、感じたい。
長崎原爆の日と7年前の夏を通じて
改めて、そう思いました。
他人の全てを理解することは出来ないだろうし、全てを理解する必要もないと思います。
だけど、分かろうとする努力はできる。
これが平和に繋がっていくのではないでしょうか。
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