短編 がんもどきと時々涙
山と田んぼだらけの田舎を飛び出し、上京してから早5年。多くの人が行き交う街の様子にも慣れ、人の流れに身を任せながら職場に行っては帰るだけの生活を毎日毎日繰り返している。
5年前、都会に憧れを抱いた少女は今、理想とはかけ離れた生活をしていた。
夢だったイラストレーターへの道は、上京して丸2年通った専門学校卒業後、いつの間にか見えなくなってしまった。
東京は田舎より家賃も物価も高い。とにかく生活するために、お金を稼ぐことを第一に考えた。
そして、ほどなくしてついた事務の仕事。初めこそ正社員という響きに安心感を抱き、淡々としたデスク作業にも気合いを入れて臨んだ。
しかし、時が経つにつれて目標を見失い、繰り返し行うタイピング、お局さんへの気配り、貼り付けたような自分の笑顔に、嫌気が差していった。
「こんなはずじゃなかった」
昔、元旦に東京から帰ってきた親戚のお姉ちゃんが口にしていた言葉が、ふっと頭をよぎる。
目の前には食べかけのコンビニ弁当と、缶ビールにおつまみ。おしゃれなレストランでディナーをしている都会のキラキラOLは、どこにもいない。
そんなある日。
就職祝いで父に買ってもらった、ちょっといいところのオフィスバッグを肩にかけ直し、家路を急ぐサラリーマンの波に乗って疲れた足を動かす。一日中ブルーライトにさらされ続けた目に、夕日が沁みる。
今日は少し早めに終わったが、誰とどこに行く予定もない。
このまま家に帰るのはなんだか嫌で、いつもは通らない商店街の方に足を向けた。
都内とは言っても、街の中心部から少し外れた道に入ると、どこか懐かしい感覚に陥る。
ポツリポツリと人が行き交う商店街では、おばさん数名が輪を作っておしゃべりしている様子も見られた。
それを横目に見ながら足を動かしていると、長くも短くもない商店街の終わりかけにポツンと佇むお店に気がついた。
年季の入った木の看板には、「とうふ 岩倉」と書かれている。
その看板に引き寄せられるように近づくと、ふんわり、温かい匂いが漂ってきた。
どこか懐かしい匂いは、もう奥深くまで沈んでしまった私の記憶の表面をさわさわと撫でる。
看板から目を逸らしてお店に目を向けると、店頭にちょこんと置いてある透明なケースの中に、まんまるなそれが並んでいた。
あ。
「がんもどき…」
ほとんど無意識に、はっとして呟いた私の言葉を拾ったのか、ケースの裏からぬるりとおじさんが顔を出す。
「いらっしゃい。これ、今あげたて」
おじさんがだらんと指差すのは、ほんのり湯気をたてるきつね色のそれ。
ごくりと喉がなる。
「…じゃあ、ひとつください」
おじさんから薄い紙に包まれたがんもどきを受けとる。そのときに、しわしわだけど、ぴんとハリのあるおじさんの手を見て、豆腐のイソフラボン効果かな、とぼんやり思う。
「まいど」
ぶっきらぼうだけどよく通る声を背に、そばにあった木のベンチに腰かける。
夕日が沈み、辺りは薄暗くなっていた。商店街の至るところから、ガラガラとシャッターを降ろす音が聞こえてくる。
暗い中にポツンと灯る豆腐屋の明かりを受け、穏やかに輝くきつね色がまぶしい。
まだ温かいそれを持ち上げ、ぱくり、ひと口かじる。
じゅわっと中から出汁が染みだし、ふわふわとした豆腐の優しい甘みが口いっぱいに広がった。
その瞬間、穏やかに微笑む母の顔、家族で囲む賑やかな食卓、実家のベランダから見える緑の山々が、ぶわっと頭のなかを駆け巡る。
そして懐かしい匂いが鼻を抜けたときには、もう、だめだった。
ぽろぽろと、涙が頬を伝って落ちていく。
上京してから今まで、イラストレーターの道を諦めてしまったあの時も、職場の人間関係が上手くいかないときも、どんなに理不尽なことを言われたって、涙を流すことはしなかった。
自分で決めたことだからと、喉の奥が震えそうになるのを必死に誤魔化してきたのに、それなのに。
一度流れだすと、次から次に落ちてくる。
よかった、幸い人通りはほとんどない。
揺れる視界のまま、がんもどきを頬張った。
美味しい、おいしいな、懐かしい、悲しい、悔しいな、こんなはずじゃ、もうやめたい。
ごちゃごちゃな感情のまま最後のひと口を口に放り込み、ゴクンと飲み込む。
紙を小さく折りたたみ、涙を拭った。
上京する前に、少し寂しそうに母が呟いた言葉が浮かんでくる。
「いつでも、帰ってきたらいいからね」
これは、逃げなのかもしれない。
もっと頑張れ、みんな同じなんだよ。そう、言われるかもしれない。
だけど、それは私が決めることだから。
ゆっくりとベンチから立ち上がり、チラリとまだ明かりが灯っている豆腐屋の中を覗いてみたけど、おじさんはどこかに行ってしまったようだった。
少し休んだら、また来よう。
そう思いながらバッグを肩にかけ直し、いつもより軽い足取りで一歩踏み出した。
がんもどき…水気を切った豆腐を潰し、そこに細かくした人参やごぼう、昆布、銀杏などを混ぜて丸め、油で揚げたもの。
元々は肉の代わりとして考えられており、精進料理だった。