カオスは、生命力とはじまりの高揚感であふれている
ここ1年くらいの個人的テーマは「野性とカオス」。
半年前くらいにHEROIC MYTH INDEX(英雄指数)という心理テストをミラツクで体験させてもらったのですが、「賢者」「魔術師」「道化」のスコアがどれも満点の私は、しっかりした軸を持っていたいくせに変化とカオスを好むという性質。
芯を貫きたい私も、変化/カオスを愛している私も、変わることのない自分自身。
数年前はこのどちらの自分も大切にするというバランスの取り方が難しかったのですが、ここ最近は共存がうまくできるようになってきた気がします。
今日は、そのことについての所感を、少し。
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混沌にまつわる物語
カオスは人間の理解や認知の外側の、得体の知れない世界。
カオスと混沌については、ロフトワーク/100BANCHの松井創さんに教えてもらった下記リンクがわかりやすいのでご参考までに。
http://kenyu.red/archives/2609.html
その中から、荘子の混沌物語を引用してみましょう。
古代の中国に3人の帝がいました。
南海の帝 ・儵(しゅく)、北海の帝 ・ 忽(こつ)、そして中央の帝 ・渾沌(こんとん)。
渾沌は、他の帝と違うところがありました。
顔に、両目、両耳、鼻、口 という7つの孔(穴)が、ないのです。
3人の帝は仲が良く、渾沌の宮殿で度々会い、渾沌はいつも二人を帝を、手厚くもてなしていました。
儵と忽の二人の帝は、もてなしのお返しに、渾沌の顔に7つの孔を作ってあげたら喜んでもらえるだろうと考え、一日一個ずつ渾沌の顔に穴を開けていきました。
そうして七日が経ち、全ての穴を開け終えた時…
渾沌は、死んでしまいました。
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…荘子の語る、「無為自然」を表現した物語。
(無為自然とは、人為的に手を加えず、自然のあるがままを受け入れよ、という思想。)
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カオスは理解できなくて良い。
わかりやすいように変容させなくても良いし、うまく扱おうとしなくて良い。
そこに存在しているだけで、尊い。
自然と向き合っていると、人がわからないこと、どうにもできないことがたくさんあって、それで良しとして生きるくらいがちょうどいいと思う。
全てを分かろうとすると、逆にわからないことがたくさん出てくる。
でも、そのままを丸ごと愛してみると、世界はとってもシンプルだ。
植物が、ただあるがままで、種が蒔かれた場で根を張るように在る。
それは、不完全な動物がなかなか持てない強かさ。
(だから、そんな動物が愛おしくもあるのだけれど。)
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春分から七夕あたりにかけて、100BANCHの周年祭「ナナナナ祭」をきっかけに、うどんアーティストの小野ウどんさん、体験作家の雨宮優くんとEat Pray Labというチームを結成して取り組んできた「うどんセレモニー」という実験的食事体験は、目に見えない霊性/祈りに焦点を当てたので、まさしくカオティック。
私たちもずっと手探りだったし、そもそも持ってる三人の領域や想いも濃いから情報量も多くて、言葉を尽くしてもなかなか伝わらないのが課題でした。
改めてわかったのは、カオスや未体験の行為を受けとめていただくのに必要なのは「信頼」「期待」「安心感」のうちのいずれかが発生した時。
そして、写真や映像、体験した人の声などの「代理体験」も非常に有効。
カオスに触れるには、思考を一瞬で飛び越えて行動しちゃうくらいの、直感が必要。
「わからない」という恐怖を超えて。
それにしては言葉では複雑すぎるし、本能までなかなか届かない。
薬草もそう。食べたことのない食材を伝えて、体内に取り込んでいただくのは、とてもハードルが高い。
自分自身の枠や限界値を超えたい時に、カオスは力を貸してくれる。
そして、現代人がかかっている「つい、意味を考えてしまう病」に、薬のように効いて、知覚や身体機能を目覚めさせてくれる。
そもそもカオスになぜ惹かれるのだろうと考えた時、「生命力と、はじまりの高揚感であふれているからかもしれない」と、振り返って気づきました。
だから心が踊るし、魅了される。
危うさや、冷たい終わりや、無も、同じくらい孕んでいるのも、良いスパイス。
カオス。
それは、生命体が持つ「生きたい」という本能が、求めているもの。