2024 共通テスト 世界史B 分析 (後編)

Tabasaです。
期間7か月以上開けたのは、私自身も反省…。
分析に入る前に、来年度以降の歴史分野の改定に関する私見を。
公立高校のカリキュラムを見る機会もありますが、やはり2年次歴史総合、3年次探求としている高校が多い。このペースでは全範囲を終わらせるのは難しい。日本史と世界史の区分の方が教員、受験生への負担が少なく、良かったと考えています。
私立・公立進学校とそれ以外の高校でさらに格差が生じる改訂になりそうで、個人的には好きになれないです。
文科省の方々は現場の教員の負担を絶対考えていないだろ。
改定の話はここまでにして、引き続き共テ分析。

今回は大問3から

【各大問分析】
(大問3A)
インド史からの出題。マガダ国マウリヤ朝~近現代までと幅広い範囲からの出題。
テーマは「インドの交通網と支配領域の関係性」
地図を参照する問題は地図の読み取りができれば正解できる。



マーク欄18の選択肢について確認。
①デカン高原に成立したサータヴァーハナ朝と交流があったのはクシャーナ朝(後1c~3c)

②マガダ国グプタ朝(後318~550年)を指している。遊牧民エフタルの侵入によって滅亡した。

③マウリヤ朝のアショーカ王の第3回仏典結集を指している。アショーカ王の業績に関して補足。

(1)インド東岸のカリンガ国の征服
10万人ほどの虐殺を行い征服。彼が後に仏教に帰依する契機となった

(2)第3回仏典結集
仏典結集とは仏典(端的に言うと釈迦が行った説法)の収集と教義の統一を指している。
注意点としては第3回仏典結集は「パーリ語」で行われていることが挙げられる。難関私大だと別の言語にして、間違えさせる正誤問題もある。

(3)上座仏教の発展
・サーンチのストゥーパ、石柱碑、法輪
・セイロン島(現在のスリランカ)に王子マヒンダを派遣して、上座仏教を伝えた(上座仏教が南伝仏教とも言われるのはここからセイロン島→東南アジアへと布教されていったため)。

④法顕の『仏国記』はグプタ朝を訪れた際の出来事を記している。


マーク欄19の選択肢について確認。
①第1回インド国民会議(1885年)はボンベイで開催されている。

②四大綱領は第2回のカルカッタ大会(1905年)で急進派のティラクが発表した内容。四大綱領についても確認。
・スワデーシ(国産品愛用)
・スワラージ(自治要求)
・英貨排斥
・民族教育

③ムガル帝国(1526~1858年)の第5代シャー・ジャハンが建立したタージマハルはアグラにある。

④デリー・スルタン朝(1206~1526年)を指している。
(1)奴隷王朝:ゴール朝のマムルークであったアイバクが建国。
(2)ハルディー朝
(3)トゥグルク朝:ティムールによって衰退。
(4)サイイド朝:イブン・バットゥーダが来訪。
(5)ロディー朝:アフガン系。


(大問3B)
1920~1970年代のアメリカからの出題。
テーマは「戦間期~WW2戦後にかけてのアメリカにおける交通手段の変遷」

マーク欄21の選択肢について確認。
(あ)債務国から債権国への転じた。
クーリッジ大統領のドーズ案(1924年)を指している。
アメリカがドイツに資本を投下、ドイツがアメリカからの資本で国内産業を発展させ、英・仏への賠償金を支払い、英・仏がアメリカへと戦債を返すという内容。
これによって、アメリカは債務国から債権国へと転じた。

(い)武器貸与法(1941年)
F・ルーズベルト政権下で成立した法案。
WW2にて枢軸国と戦うイギリスを初めとした連合国を支援するための法案。武器などの軍需物資の貸与、賃貸が主な内容。

(う)テネシー川流域開発公社(1933年)
F・ルーズベルト大統領(1933-1941年)のニューディール政策の内の一つ。
ニューディール政策は中学社会でも聞かれる話で、大きくは2つの内容から構成される。
・公共事業の増大(例 テネシー川流域開発公社)
・労働者保護、産業復興のための法律制定(全国産業復興法、農業調整法、ワグナー法)


マーク欄22について確認。
1920年代の戦間期、アメリカはパクス・アメリカーナと言われる黄金期で、国内で自動車が普及した。
そのため、この時期に鉄道による旅客輸送量が減少。また1940年代後半以降、WW2後は旅客機の開発が行われ普及したため、鉄道による旅客輸送量が減少。
また社会科の基礎知識として、陸路で貨物の輸送を行う場合は輸送コストの低い鉄道が使われやすく、海路で貨物の輸送を行う場合は船が使われやすく、航空機で輸送されるのは電子部品などの高価で軽量な物品が多いことは知っておきましょう。


(大問3C)
19世紀ロシア史からの出題。
テーマは「ロシアの南下政策および外交政策」。
ロシアの南下政策について確認。


南下政策の目的は「不凍港の確保」であるという点は押さえておくこと。
南下政策は大きく分けて2つの段階に分けられる。

(1)ボスフォラス・ダーダネルス両海峡(黒海地域)を通過しての南下。
(2)極東地域における不凍港の確保。

(1)から(2)への移行の契機となったのは、1820s~1870sにおいて黒海地域で5つの戦争に関係しても、南下が進まなかったことである。

5つの戦争についてもそれぞれ確認。
①ギリシア独立戦争(1821~1829年)
当時、オスマン帝国の支配下にあったギリシアが独立を求めて起こした戦争。ロシアはギリシアを支援することで関係し、アドリアノープル条約(1829年)でオスマン帝国から黒海北岸を手に入れている。

②第1次エジプト=トルコ戦争(1831~1833年)
オスマン帝国のエジプト太守であったムハンマド・アリーがギリシア独立戦争の際の出兵の対価として、シリアの領有を求めて起こした内乱。ロシアはオスマン帝国側を支援した。この戦争後、ロシアはオスマン帝国との間にウンキャル=スケレッシ条約で両海峡の独占的航海権を入手し、南下政策が大きく進展した。

③第2次エジプト=トルコ戦争(1839~1840年)
ムハンマド・アリーがエジプトとシリアにおける世襲統治権を求めて起こした内乱。
ロシアはオスマン帝国を支援することで南下政策の更なる進展を求めたが、英・仏により阻止されることになる。
ロンドン条約(1840年)にて両海峡の独占的航海権を失い、南下政策は後退した。

④クリミア戦争(1853~1856年)
ロシアがギリシア正教徒の保護を求め、オスマン帝国に同盟を持ち掛けたが拒否されたことを契機として両国間で勃発した戦争。
最終的にロシア VS 英・仏・伊・墺の構図となり、ロシアが敗北。
パリ条約(1856年)にて黒海の中立化、黒海における艦隊航行が禁止、南下政策は大きく後退することとなった。

⑤ロシア=トルコ戦争(1877~1878年)
オスマン帝国支配下のボスニア・ヘルツェゴビナのスラヴ系住民による農民反乱、およびこれに触発されてオスマン帝国支配下各地で起きたスラヴ系住民による反乱を、ロシアが支援、またロシアがオスマン帝国に宣戦布告した。
この戦争ではロシアが勝利、一旦サン・ステファノ条約(1878年)にて大ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアを独立させ(当然、ロシアの影響下に入っている)、大ブルガリアをロシアの保護国とした。
しかし、ロシアの急速な南下に警戒した英・墺が反発。独のビスマルクが仲介役となり、ベルリン条約(1878年)が締結された。ベルリン条約ではサン・ステファノ条約で認められていた大ブルガリアなどの領土が縮小、ボスニアヘルツェゴビナの行政権をオーストリアが掌握するなど、結局黒海地域におけるロシアの南下政策は進展することはなかった。

(大問4A)
シリアの変遷から出題。
アラビア半島は古代オリエント史、前63年以降は帝政ローマ、後7世紀以降はアラビア史、近代史では列強の中東政策、現代史では中東戦争というように、非常に多くの事項を問うことができる。そのため、地域史や宗教史の問題が組みやすい。
共通テスト以外にも、私大過去問などで様々な形態の問題に触れることを推奨。

マーク欄25について確認。
言わずもがな、コンスタンティヌス1世と三大公会議に関する問題。
まずコンスタンティヌス大帝から。
後313年のミラノ寛容令(高校世界史だとミラノ勅令と教わると思います)、後330年のコンスタンティノープル遷都、後332年のコロヌス土地定着法、ソリドゥス金貨($マークの元になった金貨)の流通、後337年にニコメディアにて洗礼を受けてキリスト教に改宗後死去(実はアリウス派の司教からの洗礼だった)など必須事項が多い。
ミッション系かつ高難度の大学では、彼が対立皇帝マクセンティウスを破り帝国の西部の権力を握る契機となった、後312年のミルウィウス橋の戦い(「汝これにて勝て」…)も聞かれることがあるため意識しておくこと。

続いて三大公会議、これらはすべて小アジアで開催されている点に注意。

①後325年 ニケーア公会議
この会議の構図は、アレクサンドリア司教のアタナシウス vs アレクサンドリア教会長老のアリウスの対決である。
アタナシウスの主張、「神とイエスは同一本質である」に対して、アリウスの主張「イエスは神の被造物であるがゆえに、その本質は異質でなくてはならない(「類似本質と呼称される」)」であった。
この論争の結末は、アタナシウスの勝利(「ニケーア信条」)であり、これが後の「三位一体説」となるのである。

②後431年 エフェソス公会議
この会議での重要な点は、「キリストの本質」をめぐる論争が行われたこと。
アタナシウス派の「キリストは神性と人性を併せ持つ」に対し、ネストリウス派の「キリストの神性と人性の分離」の対決となったのである。
この論争の結末は、アタナシウス派の勝利であったが、ネストリウス派は「景教」の名称で唐に伝来することとなる。
(アタナシウス派の理論でないと、「聖母マリア信仰」が成立しなくなるという事情もあったのだが…)

③後451年 カルケドン公会議
この会議でもエフェソス公会議に続いて、「キリストの本質」をめぐる論争が行われた。
アタナシウス派の理論と「イエスの本質を神性とする」、単性論の対決となった。
会議の結末は、アタナシウス派の勝利であったものの、単性論はコプト教、レバノンのマロン派、アルメニアのヤコブ派へと引き継がれている。

高校世界史時点では、「アタナシウス派の勝利」のみが強調されがちであるが、異端とされた宗派の理論は「ネオプラトニズム」、「グノーシス主義」に多分に支えられており、アタナシウス派一辺倒ではなかったことは認識しておきたい。
(ネオプラトニズム、グノーシス主義に関しては専攻関連範囲になり、まとめて書くとこの項目だけで20000文字は余裕で超えるため、ここでは割愛)

マーク欄26に関して確認。
①ゼロの概念はインド→イスラーム世界→ヨーロッパの順で伝来。

②ミニアチュール(細密画)はイスラーム世界発祥で、ムガル帝国期のラージプート絵画に影響を与えた。

③世界史受験者はマドラサ(学院)を初め、イスラーム関連用語は暗記しておくこと。

④イクター制はブワイフ朝発祥

(大問4B)
大航海時代からの出題。
リード文に書かれている「イタリア語の成立」に関しては、問われることも多いため注意しておくこと。
ロマンス語はラテン語からの派生言語であり、現在のイタリア語はトスカーナ地方で使われていたラテン語が基になっている。

マーク欄28に関して確認。
①高校世界史で初出する『新約聖書』はギリシア語で書かれ、後5世紀にヒエロニムスがラテン語に翻訳した(『ウルガタ訳』)。
ルターのドイツ語訳聖書は単体で扱われることも多いが、ルターはエラスムス訳のラテン語聖書『エラスムス聖書』を参照した点にも注目したい。

エラスムスの著作『愚神礼賛』、ルターの著作「九十五箇条の論題」、『キリスト者の自由』、『教会のバビロン捕囚』も併せて覚えておきたい。

②ダンテの『神曲』はトスカーナ語で記載された以外に、物語中にアウグストゥス期ローマの文人ヴェルギリウス(著作は『アエネイス』)が登場することも問われる。

③プルタルコス『対比列伝』は類似点のあるギリシアとローマの英雄を、まさに並べて(対比させ)、その詳細を描いた文学作品。

④言わずもがな、カエサル作の『ガリア戦記』
(個人的には、國原吉之助先生の訳書が好きです)

マーク29に関しては、問題文から、「1488年のバルトメロウ・ディアスの喜望峰到達」と「1492年のコロンブスのアメリカ大陸到達」の年号比較の問題と気付くことが重要。
共通テストの世界史はこのような読み取り系の問題もあるため、当日混乱しないように落ち着きましょう。

マーク欄30に関しては、「近代的な国民国家思想をそれ以前の歴史にも適用してはいけない」ということ。
イタリアの場合は、19世紀後半のイタリア統一までは都市国家の集合体であり、仏革命以前のフランスやは「礫状国家」、神聖ローマ帝国は「領邦国家」であるなど、nation stateは近代以降の思想であることは教養として知っておきましょう。

(大問4C)
中国・文化史からの出題。
中国文化史は事項が多く、かつあらゆる内容が聞かれる可能性があるため、共通テストだけではなく私大過去問などで知識をつけるようにしておくだけでも初見で混乱する事態は防ぎやすくなる。


マーク欄31に関しては唐:玄宗期の顔真卿から派生して、755年の安史の乱に関する問題。
玄宗治世末期、ソグド・突厥系の節度使 安禄山と史思明による反乱であり、彼らは大燕(中国史において「燕」の字は現在の北京付近を指すこと)を建国して、唐王朝へ牙を向けたのである。
(楊貴妃、楊国忠を贔屓した、玄宗の自業自得とも言えるが…)

①・③875年 黄巣の乱に関する記述。塩の密売商人から始まった、唐滅亡の原因となった反乱。朱全忠は元々、反乱軍側であったが、唐に降伏し節度使となって、後梁を建国している(五代十国 907-960年、節度使による武断政治)。

④安史の乱では、トルコ系のウイグルから助力を得て、反乱の鎮圧に成功した。しかし、その後ウイグルは中国大陸西北部で勢力を増していくこととなった。
安史の乱付近で、唐王朝は兵制(府兵制から募兵制)、税制(均田制+租庸調制から両税法)の大きな変動があり、高校世界史ではこの乱をターニングポイントとして学習すると理解しやすい。

マーク欄32に関連して、詩と書道に関して。
まずは詩から。
四六駢儷体は六朝文化関連で頻出の話であり、これは対句を重視した詩の形式を指している。唐代の韓愈、柳宗元の古文復興運動(漢代の文章への回帰)で大いに批判されたものである。

次に書道について。
このあたりを覚えておけばいいかなとは…。
王羲之(東晋):書聖、「蘭亭序」が有名。
欧陽脩(唐・太宗)
虞世南(唐・太宗)
褚遂良(唐・太宗)
顔真卿(唐・玄宗)

マーク欄33に関して。
北魏の漢化政策を実施したのは、孝文帝である。
また北魏に関しては、太武帝-寇謙之の新天師道(道教)による廃仏政策も忘れてはいけないだろう。

清の高宗乾隆帝に関しては、むしろ「文字の獄」で言論統制をしている。

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