コルホーズの中国行 三日目(後編)
昼飯を食べた後には、日本の行った歴史的犯罪である
南京大虐殺記念館
に行ってきました。
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館
です。
子を失った母親の像
南京大虐殺が始まり、生を求めて逃げる一般人の像
殺された妻をつれて逃げる像
爆撃の中を逃げる親子
悪魔が来た
13歳の少年が爆撃で死んだ母を担いで逃げる像
80歳の老夫婦が血眼の悪魔から逃げる像
凌辱された女性像
死んだ母親の前で乳を求めて泣く像
三ヶ月の悪魔の殺戮は小児も逃れられなかった像
死んだ少年に水を与えようとする像
逃げようとする犠牲者のモニュメント
一番虐殺が激しかった期間の碑
南京大虐殺事実展示の入り口
氏名のわかる犠牲者の名前が展示してある。しかし氏名のわからぬ犠牲者も多い。
今も生きている南京大虐殺の犠牲者、前回の調査が2017年だったので、この二年間でなくなった人のところはライトが消えている。
南京大虐殺の生還者の写真
犠牲者の慰霊碑
花を手向けてきました。
序文
日本帝国主義が意図的に中国大陸において918事件をおこし、盧溝橋事件の後に日中全面戦争を開始した。上海を占領した後の日本軍は大量の殺害、略奪、破壊などありとあらゆる犯罪をおかし、南京を壊滅させた。
日本が産業革命以降軍国主義が台頭し、中国侵略を行い始め1937年にはついに全面戦争にまで発展した。
大東亜共栄圏などのアジア制覇の野望に燃えた日本が、日中全面戦争後上海で中国国民党軍と大激戦を繰り返した。日本軍は増援を送り上海を攻略した。
展示されていた日本の軍隊が子供に軍隊を親しませるおもちゃ、Twitterでもよく見るこの営内漫画が展示してあったのは驚いた。
当時の日本情勢の紹介、田中内閣で中国権益の拡張を決定、226でファシスト化が加速、広田内閣で天皇中心の軍国主義の確立としている。
中国東北地方での虐殺の展示(平頂山事件)
歩兵第七連隊の記念写真帳と支那事変従軍記章
中国東北地方での惨殺事件見取り図
蒋介石が1937年7月17日徹底抗戦の談話を発表
華北での日本軍虐殺の見取り図
華中・華南での虐殺の見取り図
爆撃で亡くなった上海市民
日本軍は南京に向かう途中多数の都市・農村で無数の犯罪行為を行った。
12月2日に丹陽を日本軍が占領、南京迄残り85キロである。
当時の十六師団の兵士が作成した南京攻略戦の図、華北から上海への転進と上海から南京にかけての道中がよくわかる。
8月15日という何とも因果な日から日本軍は南京空爆を開始した。この日から南京は後方から前線へなった。
当時爆撃に巻き込まれた母親の足型。二人の娘は爆死している。
南京空襲時の航空写真
爆撃でできたクレーターがよくわかる。
爆撃から逃げる親子の像
爆撃を受けた市街地の再現
中支軍の形成
蒋介石が南京を死守せよと命令し、激戦が展開された。
遷都と当てもない避難民
老婆の手を引いて南京から脱出を図る難民の写真。
当時の人口と工業生産の比較
手りゅう弾やヘルメット、発掘されて見つかったものである。
当時の日中の工業原料の生産量比較
当時の日中の兵器生産量の比較
中国では近代兵器はほぼ生産できなかった。
当時の日中の戦力比較
歩兵では中国が圧倒的であるが、近代兵器で日本が圧倒している。
日本軍の指令系統と中国軍の装備
中国軍は中央軍と広東軍閥軍と四川軍閥の軍が混ざって戦っていた。
兵器も統一されていない。
昭5式と98式軍服
名古屋連隊の軍服である。
中国側の指揮系統図
写真がぶれてて申し訳ない。
感状などである。
兵力と、各師団の対面した状況がわかりやすく表示されている。
私の郷土師団は6師なので連隊を見ると中華門攻略であり、中国側の防衛軍は73軍97師団・51師団である。
戦火いよいよ南京へ迫る。ついに南京への総攻撃命令が下った。
紫金山での激戦、此のトーチカは午前中見たものである。
激戦場の写真
南京、ついに陥落
朝日新聞の南京陥落の特報、いつ陥落してもいいように日付が空欄である。南京陥落の誤報のこともしっかり展示してあった。
光華門での激戦の再現ジオラマ、音や煙まで出て臨場感がすごい。
当時の光華門の写真
日本軍の集団虐殺事件の主要地点の図
発掘された人骨
虐殺状況の写真が載っている当時の連隊写真帳
刀で首を落としている写真
切り落とした首に煙草をくわえさせ遊んだ日本兵の証拠写真
南京大虐殺の油絵
朝日新聞の報道
百人切りの刀 上海にもあるそう
性暴行の展示
日記など、当時の一次資料に克明に日本の犯罪が記されている。
日本軍の慰安所の展示、有名な写真である。
日本軍の徴用の証拠
すざましい略奪写真、当然不許可となった。
放火と破壊
歴史の証言、貴重な証言が展示されている。
人道主義の救援
南京陥落の時期に人道主義の基に難民を救済した外国人の紹介。
南京安全区の設立
上海の成功に倣って南京でも安全区が設立された。
安全区にかかわった外国人の一覧
安全区の地図
外国人の勇敢な救助行動を南京人は決して忘れない
南京の女性の救助に奔走した女史
中国人民からの
義を見てせざるは勇無きなり
の旗。
日本でネトウヨがこの故事を好むのは大いに皮肉である。
中国人民同胞の助け合い
同胞救助に奔走した中国人士
当時の僧侶が日本軍に対し抗議文をしたためて司令部に送ったが、顧みられることはなかった。
南京事件は積極的に世界で報道されたが日本は当時から隠ぺいしようとした。
国際社会の反応
日本当局の虚偽宣伝
日本国内に向けては軍・政府双方から虚偽の宣伝が行われた。現在でも週報や日本ニューズで南京事件がなかったという邪悪な人間がいるが、この当時の宣伝はいまだに日本でまだ力を持っている。
雑誌の中の南京
ネトウヨなどがよく使用する日本軍の虚偽宣伝の写真である。
大虐殺後の南京
凄惨な状況の南京では日本の軍政の下で中国人民はこの後7年の苦難にあえぐことになった。
日本の傀儡政権の確立
市民の生活
日本軍は占領後に自らの犯罪を調査しなかった。しかし敗戦後に中国人民により戦後から綿密調査が行われた。
日本軍司令官の押収された刀
国民政府も日本軍の犯罪を調査した。そ
日本軍の降伏式典
日本軍の大規模な虐殺は法廷で認定されている
日本における南京虐殺の本が展示されていた。しかしさらに膨大にある否定論の本は展示されていなかった。
特別展では、南京で救助に活躍したデンマーク人の展示が行われていた。
このデンマーク人は上海で義勇兵として参加していたらしい。
歴史を忘れず、平和を愛す
虐殺のモニュメント
外にある慰霊碑これは南京近辺の虐殺現場ごとの慰霊碑である。
長江の中州での虐殺の慰霊碑
この二つ以外にも沢山の慰霊碑があったがあまりにも多いので写真が撮り切れなかった。現地に行って確かめていただきたい。
また、この慰霊碑の周辺の壁には虐殺犠牲者の氏名が刻まれていました。おそらく親族に犠牲者がいると見えて家族連れである名前の前で集まっているなどの光景もありました。
此の光景を見ても南京の虐殺はなかったと言える人はいるのでしょうか?
居るんでしょうね、日本人には。
万人坑の遺跡
発掘現場
犠牲者の一覧、子供が多いのが痛ましい
そとのレリーフ
翻る民主と解放の旗
平和の碑
地下鉄で南京林業大学へ移動し、院生の友人と合流、夕食へ
夕食は一人火鍋でした。
酸湯を選びましたがあんまり酸っぱくなかったですね。
卵豆腐、中国では日本豆腐、食べ方がわからずに袋から吸うと中国人の友人に笑われてネットに晒されてしまったw
近くのコンビニで列車の時間まで時間をつぶし、駅まで30分行進、三日間毎日あるいていたので最後の南京での長距離と徒歩移動。
普通に疲れてましたが頑張りました。
駅前にはやたらホテルのキャッチがいてびっくりです。
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