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第八章  世界の創造と世界の再構築〜大層なこと言ってる様で全く大したことない話〜

 私が大学の一年目に受けていた講義に、毎回有名な古典文学〜現代文学を取り上げて作中の表現に触れるというものがあった。梶井基次郎の『檸檬』や森鴎外の『舞姫』、俵万智の『サラダ記念日』など本当に様々な作品に触れた。教授毎回が題材となる小説を提示し、その表現について考える。とても文学部らしい講義だった。
 その講義は毎回講義の感想や自分の意見を提出する必要があり、名刺より一周り大きい程度の紙が配られていた。一週間後の講義に、教授が赤ペンでコメントを書き添えた紙が返却されるのだ。いつも丁寧なコメントを書く教授が一度だけ、「?」としかコメントを添えず紙を返してきたことがある。その時のことを私は今も夢に見る。
 18歳の束子が数行の感想用紙では教授に上手く伝えきれなかったその話をちょっとしてみようと思う。
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 作者によって創造された世界は読者によって再構築され、 その世界は等しいものではない。 作者はそれを理解がする必要があり、 また時にその再構築を期待する。

 大凡このような事を補足と共に提出した記憶がある。補足があったとはいえ、これでは何を言いたいのかさっぱりに違いない。教授とて「?」しか返せないだろう。分かる。18歳の私が全面的に悪い

 しかし私がその時伝えたかったことはとても簡単なことだ。

作者の構築した世界ABが存在する時、 A=記されていること  B=記されてはいないこと である。 読者の構築する世界ACは、 A=記されていること  C=記されてはいないこと である。 そして、 A=A B≒C若しくはB≠Cである。

 何だか一見数学のようなことになってきたが……やっぱりこれも至極簡単なことなのだ。

例えば私(束子)が、
「友人にチューリップを贈った」
という短い文書を書いたとする。当然、
A=友人にチューリップを贈った
であるが、
B=チューリップは博愛の花言葉を持つ
というそこには書かれていない(束子が書かなかった)事実が存在している。

この文章を、ドイツに在住する某さんが読んだとする
A=友人にチューリップを贈った
であることに変わりはないのだが、
C=ドイツではチューリップは絶交を意味する花
というドイツの風習が文章に付与される。

世界ABでは君のことが好きだよと伝える花だが、
世界ACではお前とは絶交だと伝えてしまっている。
当然、AB≠ACである。

 同じ文章であっても、作者と読者のもつ常識や知識、風習によって受ける印象は変容する。この知識には前後の文章に書かれたことも含まれて良い。
 作者は自分の書いた文章またはその文章の意図が、読者に100%は正しく伝わらないことを理解しなければならない。だからこそ丁寧に、情景や意見や情報が伝わる文章を書く必要があるのだ。これは文学作品に限ったことでなく文書全般に言えることだ。

 しかし、敢えて100%書こうとしないことでミスリードを誘うこともある。所謂「叙述トリック」というものだ。読者の先入観を巧みに利用したトリックで、私は叙述トリックに引っ掛かる度に悔しくもニヤけてしまう。推理小説好きは案外騙される事が快感だったりするものだからだ。
 例えば一人称「私」の麻琴という人物がいたとする。勝手に女性だと思い込み文書を読みすすめて……それが丁寧な口調の男性であったと最後に分かったら……?先入観を利用したこれが叙述トリックであり、私の言いたかった再構築の期待なのだ。

 これっぽっちのことなのである。これっぽっちが、18歳の束子には上手く伝え切れなかったのである。小さな紙には書くことも限界があるとはいえ、これだけの事がうまく伝わらなかったことが私にとっては心残りなのだ。お陰で今も夢に見る。というか、昨晩の夢はこれだった。おそらく、昨晩私が言いたいことが相手に伝わらないという経験をしたせいだろう。そんな些細なことが過去の記憶を呼び出したのだ。ふんす。

 私も趣味や仕事でシナリオなどを書くことがある。その際には私の構築する世界が、読者や演者らに100%伝わらないことを理解し、それでも100%に出来るだけ近く伝わるように丁寧な文書を書きたいものだ……と心に書き留め、今日のりあくえを終わる事にする。

p.s.
 夏のキッチンは地獄!ガス台の火は地獄の業火!
 他人に作ってもらったご飯ほど美味しいものはない。今から帰省して食べる母の手料理が恋しい束子である。
 スマホの容量に加え、私は劇的に寝るのが下手なので、ポケモンが可哀想なことにしかならないと、ポケモンスリープを入れられない。

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