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タバブックスの本棚から09─脱コルセットと映画『Nappily Ever After(おとぎ話を忘れたくて)』

 タバブックス最新刊『脱コルセット:到来した想像』について「3回に分けて語らせてほしい」と言いつつ、4回目に突入してしまった。最終回は本の内容からは少し外れて、本文で言及があったネットフリックス映画『Nappily Ever After(おとぎ話を忘れたくて)』について語りたい。

 私はこの映画を『脱コルセット』を読む前にすでに観ていた。だが著者のイ・ミンギョンさんは、これを途中で観るのをやめてしまったという。それは「カメラにフォーカスされていない脇役の女性たちまでハイヒールを履いて出てきたため、息苦しく」なったから。著者自身が脱コルセットしたことで、彼女たちがハイヒールを履くときにかかっている苦痛やプレッシャーが目につくようになったのだ。一方、私はこの本を読むまで登場人物がヒールを履いていることにも気づかなかった。


 映画のタイトル『Nappily Ever After』は、黒人のいわゆる縮れ毛の髪をあらわす「nappy hair」と、おとぎ話の結びに使われる慣用句「happily ever after」がかけられている。タイトルのとおり、ストーリーは主人公である黒人女性の髪の毛問題を中心に展開していく。幼い頃から(男性の結婚相手を見つけるため)外見を完璧にするよう母親に求められてきた主人公ヴァイオレットは、もともとくせのある髪の毛を熱したコームでまっすぐにし、水蒸気や雨に当たらないよう細心の注意を払って生活している。アクシデントで水を浴びてしまい、慌てて駆け込んだ美容室で、彼女は200ドルものお金を払う。映画は、そんな彼女の生活を表して「Straightened(ストレート)」、「Weave(つけ毛)」、「Blonde(金髪)」、そして「Bald(丸坊主)」、「New Growth(また伸びる)」、「Nappily(クルクルヘア)」という6幕からなり、それぞれの髪型での彼女の変化を追っていく。

 黒人女性が毛や頭皮を痛め、莫大なお金を費やしてストレートヘアにするのは、フィクションの中だけでなく、アメリカ社会に実際に存在する問題だ。劇中に登場する「黒人は人口の12%だがカツラとウィーヴの70%を黒人が買う」というセリフも作り話ではない。ただ、黒人のなかでも男性の場合、ヴァイオレットと同じ程度に長いストレートヘアにこだわることはないだろう。また女性であっても、白人の場合、彼女と同じくらい髪のために苦労することはないだろう。黒人女性の髪の毛問題は、女性かつ黒人であるために、性差別と人種差別の両方が絡むインターセクショナルな問題なのだと思う。そして同時に、『脱コルセット:到来した想像』を読んだ私には「コルセット」の問題にも見えた。


 ほとんど強迫観念のようにストレートヘアを死守し、それが完璧でないと取り乱してしまうヴァイオレットの姿は、「化粧しないと外出なんて無理」だと考えていたダンプン(3章)や、ハイヒールのせいで横断歩道で走ることをあきらめていたヘイン(4章)、完璧にコーディネートした服を着ても「足りないところばかり目につく」と思っていたヘミン(8章)の昔の姿と重なる。
 そしてヴァイオレットは自らバリカンで頭を剃り、丸刈りにする(失恋後の酔った勢いに任せて)。その行為は、今まで執着していたものを自らの意志で断ち切るという点で、メイク道具を破壊したり、運動靴や男性用の服を身に着けるようになったり、髪を切ってツーブロックや坊主頭にした韓国の女性たちの実践と似ている。彼女が丸刈りにした後の、「変な話だけど髪のことを考えなくなって時間ができたの/副業みたいだったから/楽でいい」というセリフは、遅刻してまでメイクをして学校に行くのがマナーだと考えていたヘギョン(10章)が、メイクをしなくなってその時間に勉強をするようになったというエピソードと共通している。またヴァイオレットの頭を見たときの「同性愛者になったのか」という母親の反応は、ジンソン(6章)が脱コルした姿を見たときの「レズビアンになったのか」という男友達のリアクションと同じだ。つまりヴァイオレットが脱したものの根底にも、女性は男性にとって魅力的であるべきという異性愛の規範があった。


 「コルセット」を自らの意志で脱するという身体的な経験としては、脱コルセット運動と共通する部分がある『Nappily Ever After』だが、一方で脱コルセット運動とは根本を分かつ点があることにも私は気づいた。それは「美しさ」へのアプローチだ。脱コルセット運動が「美しさ」を追求することを“放棄する”のに対し、ヴァイオレットの物語は「どんな髪でも“美しい”」という結論を出す。ラストで彼女が言う「ウィーヴがよければやればいい/ストレートでもいいわ/選択の問題/それは悪くない/でも自然な髪は美しいと知る必要がある」という言葉が象徴するように、彼女にとって丸坊主にしたことや、その後髪を伸ばしてもストレートにせずnappyでいることは、あくまで「美しさ」の範囲内にある「選択」なのだ。また彼女は髪の毛以外の「コルセット」、例えばハイヒールを履いて出勤することから脱することはない。「美しさ」のための着飾り労働は継続する。一方、かつて毎日化粧をして会社に行っていたジエ(1章)は、最低限の身なりを整えるのに女性だけが時間とお金をかけていることに気づき、「化粧をしない」という、「美しさ」の外側にある選択肢を持った。その点が、根本的に脱コルセットの実践と異なるところだと思った。


 この映画を初めて観たとき、私は単に黒人女性へのエンパワーメント映画だと思った。だが『脱コルセット』を読んで、この映画が女性をエンパワーしようとするときに発するメッセージは、「(男性と/白人と同程度に)美しくある必要はない」ではなく「あなたも“美しい”」だったのだと気づいた。

(げじま)

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