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タバブックスの本棚から01—小さな言葉

はじめまして、げじまと申します。先日からタバブックスのアルバイトに加わりました。
ぎりぎり学生で、3月に卒業します。大学ではいくつか言語を勉強しました。ことばに関心があります。
ときどき自分で文章を書いたりZINEを作ったりもします。おもしろい本を作る仕事がしたくて、運よくタバブックスで働くことになりました。よろしくお願いします。

これから私の記事では、タバブックスのオフィスにある「ご自由にどうぞ本棚」から手に取った本の一節をテーマに、私が考えたことについて書いていこうと思います。
「世界の車窓から」ならぬ「タバブックスの本棚から」、小さなことばをのぞき窓に、そこから社会や世界へと考えを広げてみよう、という試みです。

さっそく今回は、アルバイト初日に手に取った『仕事文脈 vol.17』(タバブックス、2020年11月) 「特集1 ことばはどこに行く」の冒頭、小沼理さんの「小さな言葉」という記事を題材として、私たちが普段使っていることばについて考えてみます。

「小さな言葉」という記事では、小沼さんがライターとして、ある寝具メーカーからベッドを紹介するSEO記事の執筆を依頼され、「夫婦」というキーワードを指定された際のエピソードが登場します。

夫婦という言葉自体は、特に問題があるものではない。ただ、その時私が依頼されたのは二人で寝るためのベッドを紹介する記事で、あえて「夫婦」と性別を規定しなくても、「パートナー」や「カップル」といった言葉でも代替できそうな内容だった。

「夫婦」ということばからは、「男女でない」二人や「結婚していない/できない」二人がこぼれ落ちます。これに対して小沼さんは違和感を覚え、依頼主に「夫婦」以外のことばで代替できないかと提案しますが、残念ながら受け入れられず、結局小沼さんのほうが執筆の担当を降りることになります。

このように当たり前に使われている「夫婦」ということばは、それに当てはまらない人の視点から見ると「異性愛主義」という色がついているのだと改めて気づきます。

もうひとつ別の視点から見てみると、「夫婦」ということばでは、男性を指す「夫」と女性を指す「婦」というふたつの漢字のうち、男性の「夫」が先におかれています。

「夫婦」と同様に「父母」や「男女」といったことばも思い浮かべてみると、男性を指す漢字が先にくるという点で共通しています。もし女性と男性の人口がほぼ半々であるように、両者のパワーバランスが平等であったなら、「婦夫」と「夫婦」、「母父」と「父母」、「女男」と「男女」など両方のことばが存在し、ふたつの間で表記がゆれるのではないでしょうか。

それにもかかわらず男性が先にくる表現のみが存在するのは、両者のパワーバランスが一方に偏っているからでしょう。夫のことを「主人」と呼ぶように、男性が主で、女性は従だという価値観がこの順序をつくり出したのかもしれません。

「夫婦」ということばは、「異性愛主義」という色とともに「男性中心主義」という色がついているようです。

今回は「小さな言葉」という記事から「夫婦」ということばについて考えてみて、ありふれたことばにも排除や偏向があることに気づきました。

私たちは完全に偏りのない、無色透明のことばだけを使うことはできません。
それでも「ことばには偏りがある」ことを意識することで、より排除や抑圧の少ないことばを使おうと努力することはできると思います。

ことばを使って文章を書いたり、本を出版したりするとき、私はそのことを忘れずにいたいと思います。

(げじま)

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