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こいのぼりの好きなもの探り10 「大豆田とわ子と三人の元夫」と言葉 ※ネタバレを含みます

 今日記すのは先月最終回を迎えたドラマ、「大豆田とわ子と三人の元夫」について。坂元裕二さんが脚本です。楽曲やキャストでも注目を浴びていました。ただ豪華にするって感じではなくて、なるべくしてその役となったキャスト、かかるべくしてかかる曲、あるべくしてそこにある風景や物という感じ。みている人を泣かせてやろう、ドキドキさせてやろうみたいなわざとらしさがなくて、その時の登場人物の意思や癖を潰さない。制作陣のただならぬ作品への愛や葛藤の積み重ねが生み出した世界なんだなと思いました。噛めば噛むほど美味しい、みたいに、見れば見るほど好きになる作品です。なのでこの溢れ出る気持ちを何回かに分けてお話しできたらなと思います。笑 今回はこのドラマと言葉について。

 この物語を通して、しみじみと思いを巡らせたことの一つに言葉の力があります。第一話はとわ子と元夫達である八作、鹿太郎、シンシンの性格がなんとなくわかる回。その中でとわ子が八作に(とわ子の)母が亡くなったことを告げるシーンがあります。とわ子が母の死について「悲しいって言えば悲しいんだろうけど、言葉にしたら、言葉が気持ちを上書きしちゃう気がしてさ」と言うのですが、この表現は過去の坂元さんの作品にも度々出てきていて、その度に私は、言葉にするという行為が持つ力をはかりかねている自分に釘を刺します。
 言語化は思考の整理にもなるけれど、自分の感情にピッタリと合うものがなかった場合、あるいはその言葉を見つけ出せない・間違った言葉の選択をしてしまった場合に思い切って言語化をしてしまうと、元々あった感情が言葉の形にぴったりと当てはまろうと原型をなくしてしまう。その感覚を上書きだと私は思っています。悲しいっていったら、それ以外の気持ちが塗り替えられてしまう気がする。言葉には大袈裟にいうと、感情を改ざんする力がある。自分の気持ちを大切にするためには足早に言語化しないことも大事だなあ。そうやってふと、身近な人の寡黙を想うのでした。

 そして言葉って複雑だ…と感じた場面がもう一つ。社長業は向いてないとずっと感じていたとわ子に対して、かごめが「あなたみたいな人がいるってだけでね、『あ、私も社長になれる』って小さい女の子がイメージできるんだよ。いるといないとじゃ大違いなんだよ。それはあなたがやらなきゃいけない仕事なの。」と言うシーン。かごめが亡くなった後、とわ子はその言葉に縛られるように社長業をこなそうと奔走します。私もたまに同じようなことをします。いつも洋服を買う時、病気で亡くなってしまった友人が言ってくれた「〇〇にはピンクが似合うね」という言葉を思い出してピンクばかり買ってしまいます。そうやって言葉に縋り、亡くなった人を自分の中に取り込んでいくことが、悲しさを紛らわせるのかもしれません。
 意思疎通ができないことで不在を認識せざるを得ないという虚しさ感じた場面でした。なんだか少年ジャンプで連載中の「呪術廻戦」を思い出します。言葉は呪いにもなり得る。

 じゃあ誰かに何かを伝えることを躊躇するようになったかというとそうではなくて。何度でも話そう、何度でも伝えとようと思うようになりました。相手がいるうちに、何度でも更新をしよう。ありがとう、大切だよ、とかそういうのは特に。

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(写真は最近頻発している偏頭痛を弱めてくれる気がしてガブガブ飲みがちな、喫茶店のアイスティーです)

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