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生きるためのフェミニズム おしゃべり会 第3回ゲスト:工藤万里江(新教出版社『福音と世界』編集者)

堅田 「生きるためのフェミニズム おしゃべり会」第3回は、月刊誌『福音と世界』(新教出版社)編集部の工藤万里江さんをお招きしました。偶然にも私の本のタイトルと、『福音と世界』8月号の特集タイトルが同じ「生きるためのフェミニズム」だと担当編集の丹野さんが気づいて。

ーそれですぐに工藤さんにご連絡を差し上げたら、「フェミニズムに関して同じ視座を持てている証ではと勝手に感じて、むしろ励まされる思いです」という胸熱なお返事をいただきました。同じタイトルで2019年1月号、2021年8月号と2回特集をしているんですよね。

工藤 そうなんです。共感していただけると思いますけど、年々フェミニズムがとりあげないといけない課題が増えてるっていうか。2019年の特集時にも反響があったんですが、その後パンデミックやオリンピックなんかもあって、まだまだ考えるべきことがいっぱいあるなと。

1『福音と世界』2019年1月号

「福音と世界」2019年1月号

2『福音と世界』2021年8月号

「福音と世界」2019年1月号

寝ることすら金儲け、活躍に結びつけなきゃいけない?

堅田 私、この本の中で、結局本文では十分に展開できなくて注釈でふれたテーマがあるんです。それは何かというと、99%のフェミニズムっていうか、社会的再生産論とかマルクス主義フェミニズムっていうのかな、そういう立場の人たちと近年のいわゆるインターセクショナリティ論とがときに対立的に語られることがあると思うんだけど、これって必ずしも二律背反的に語らなくてもいいんじゃないかな、ということで。でも、なかなかうまく書ききることができなくて注でふれるだけにしたんです。それで、『福音と世界』2021年8月号の「生きるためのフェミニズム」特集を読んで、「これだー、こういうことだよね!」って。とくに林みどりさんのラテンアメリカの女性たちについての論考とか。

工藤 (笑)。私も特集のどれを読んでもすごく勉強になって。フェミニズムが今問いかけているものって、私たちが使い古してきたと思っているような概念を全然違うかたちで根本的に捉え直すことなんだなと感じて。生産とか労働とか、当然のことながら「女」という概念も。

堅田 そう思います。めっちゃいい特集でした!

工藤 ありがとうございます。私、今日は堅田さんの本の感想をいっぱいいいたくて。

堅田 嬉しい。

工藤 まず、この表紙のキルトがすごいなと。見れば見るほど、ここに魔女がいてバラがあってパンがあって、ああそうかと。いろんな意味が込められてますよね。

堅田 はい、表紙のキルトは古い友人でもある山姥の二人が作成してくれたんですけど、彼女たちは初稿を読んで、そこで印象に残ったシーンをモチーフに作品を作ってくれたんです(詳細は、第1回の「おしゃべり会」参照)。デザイナーの百﨑さんも、初稿を丁寧に読んでくれて、本の内容とキルトを活かしたデザインにしてくれた。友人たちと一緒に作った、すごく思い入れがあるところなので、表紙を褒めてもらえると、すごく嬉しいです!

工藤 キルトにも第1部の〈「活」という名の妖怪〉が刺繍されてましたけど、本当に今の社会、いかにすべてのことを活用してお金につなげるかみたいなことが溢れてるなって思うんです。ちょうど最近自分に合う枕を探していたんですけど、ラジオでずっと同じ枕の宣伝をしてたから検索してみたんですよ。ワクワクして YouTube の広告見てみたら、それがいかに効率よく寝てアウトプットのクオリティを上げるかが大事なんだ、だからこの枕がいいんだみたいな話をしていて。

堅田 おお、寝活だ! もしやその枕って、固まった春雨みたいな形状の?

工藤 そうです!

堅田 高いんですよね、いくらだ(検索する)…えっ! 3万3000円 !? 前住んでたアパートの家賃と同じくらいだ。1カ月住めるんだけど!(笑)。買ったんですか?

工藤 いや、即座にやめて違う枕を買いました(笑)。寝ることすら金儲けや活躍に結びつけなきゃいけない、24時間そのためだけに生きろ、みたいなメッセージにうんざりしちゃって。この〈「活」という名の妖怪〉はフェミニズムにも簡単に取り憑くんですよね。フェムテックとか最近いうじゃないですか。あれもすごく微妙な気持ちになる。もちろん体を楽にしたいし、何か使えるものがあったら使いたいけど、それは別に活躍するためじゃないんですけど、みたいな。より男のような体になるためにこういう技術を使え、といわれているような気がして。

堅田 より生産的になるためじゃなく、自分が気持ちよくありたいだけなのに。

4 枕_工藤さん

工藤さんが紆余曲折の末、ただ眠るために買った枕

枕_堅田さん

買ったのはいつのことだったろうか…堅田さんの枕

一つ一つの抵抗の振る舞いとか身振りは日常の延長にある

工藤 それで、堅田さんに聞いてみたかったのが、こういうネオリベ的な経済構造であったり、ヒエラルキー的な構造って至るところにあるじゃないですか。たとえば、私は編集の仕事をしながら大学院に通っていたんですね。それで、キリスト教の権力構造を批判する神学者を考察した論文で博士号をとったんですけど、自分がその論文を何に向けて書いているかといったら、まさにヒエラルキー的な構造の中で定められた、一つの「権威」としての称号を目指して書いているわけです。「リーン・イン・フェミニズム」の危険性とかヤバさってよくわかるんだけど、同時に、自分自身にも能力主義が内在化されているなとしみじみ思います。名誉とか地位が欲しいとはあまり思わないけど、この社会の中で普通に自立して食べていきたいっていう気持ちはすごくあるし。堅田さんはそういう矛盾って感じたりしません?

堅田 めっちゃ感じてますし、今でもすごく苦しくなるときがあります。まさにそういうこと、自分の葛藤や矛盾の一部については、この本の第2部や第3部に書いている通りです。私の場合、情けない話なんだけど、博士号がほしいとか研究がしたいという強い思いがあったわけではなくて、路上での暮らしに挫折して、なんとなく大学院に残ったんです。で、そこで、日本の生活保護制度とか、何かこう、扶助は尊厳と引き換えじゃないと受けられない仕組みになっていると知って。それで、当時たまたま読んでいた論文の中でベーシックインカムというアイデアに出会ったんです。資本主義を強化して維持させるために作られている扶助の仕組みを変えるだけじゃなくて、むしろそれを反転させて、パンが欲しければバラを引き換えにしなければならないっていう交換の論理を無効化するベーシックインカムがあったら私でも生きやすくなるんじゃないか、食っていけるんじゃないかって。研究対象としてだけじゃなく、現実的に自分にとっても必要なものでした。

工藤 堅田さんはこの本で、自分をとりまく社会構造の問題点がいろいろと見えてきたときに、じゃあどうやって抵抗したらいいかっていうことの大切なヒントを具体例としていくつもあげてますよね。たとえば、堅田さんが10代のときに出会ったタネさんという女性。ズル賢く生き抜く人なんだけど、彼女が生きていることそのものが抵抗になっていたんだろうと思うし。

堅田 彼女と出会ったことは私にとってすごく大きかったと思います。

工藤 ナチス政権下でハガキを書いたハンペル夫妻、庭を協働して作る人たち、踊るロンドン・ラティンクス、工場労働の中で唐揚げをつまみ食いさせてくれるベトナム人同僚。決められたルーティンの中でくすねたり、ズル賢くしたり。そういうのも抵抗なんだなって。

堅田 抵抗っていうと敷居が高くなっちゃうこともあると思うんだけど、一人一人の、一つ一つの抵抗の振る舞いとか身振りって案外日常の延長にあったり、場合によっては滑稽だったりもする。いつでも、どこにでもあるもの、あったものだと思うんです。それなのに、なんか、国家が認めるようないわゆる「大文字」の言葉だけが歴史として仰々しく出てくることに違和感がずっとあって。ハンペル夫妻って、本当にどこのレジスタンスにも属していなかったらしいんです、仲間がいたわけでもない。ただただ自分たちの良心に従ってハガキを書いて撒いていた。命がけで。これってすごく尊いことだなって。

工藤 歴史に残って褒め称えられるのって、パワーを持った男性が中心ですよね。キリスト教でいうなら、たとえばキング牧師とか。だけど、記録されていない抵抗ってきっとたくさんある。女性もだし、人種や階級、その他さまざまなことで周縁に置かれている人たちの抵抗とか。

堅田 そういうのがなかったことにされないようにしたい、忘却されていくのは嫌だ、そんな思いもこの本には込められています。

「そんなこと口に出しちゃいけない」ってところから神学やっていこうぜ

工藤 そんな中で、堅田さんの「魔女になろう」っていう呼びかけが、キリスト教のフェミニスト神学やクィア神学を研究している側からは刺さるというか特に魅力的で。魔女狩りはキリスト教によって起こったことで、本当に、女性をいかにコントロールするかっていうことにどれだけ心血を注いできたんだこの宗教は! っていう(笑)。

ーフェミニスト神学、クィア神学というのは?

工藤 ご存じの通り、キリスト教内部って女性差別と同性愛者差別が渦巻く世界なんですよ。歴史的にそうだし、実際今でもキリスト教右派が中絶や同性愛に激しく反対したりしている。そういう抑圧、迫害に対して内部から抵抗の声をあげた人たちがたくさんいるんですね。その一つがフェミニスト神学、クィア神学といわれるもの。私はそうしたキリスト教の読み直しや捉え直しを、抵抗運動だと思っているんです。

堅田 ウェブにあった工藤さんの論文、読みました! 「性的アイデンティティと宗教的アイデンティティ」と、「『クィア神学』における女性神学者たちの思想研究」。

工藤 わあ、読んでいただいたとは! …マニアックな内容じゃなかったですか?

堅田 私もともと堀江有里さん(*注)の書くものが好きで、読んできたんですけど。工藤さんの論文も、こんな世界があるんだ、とすごく面白くて! クィア神学とひと言で言っても、向き合い方のスタンスとか、一元的に固めていう人もいれば、内側から裏返して理論化していく人もいる。

工藤 私はラテンアメリカの貧しい女性の経験を出発点にしているマルセラ・アルトハウス=リードに惹かれているんですが、彼女はクィア神学をするということは帝国主義、資本主義に抵抗することだっていってるんです。アルトハウス=リードはアルゼンチン出身なので、著作を読んでいくうちにラテンアメリカの背景をもっと知らないといけないなと思っていたら、『99%のためのフェミニズム宣言』や8月号の林さんの論考などに出会うことができて、なるほどこうやってつながっていくのかと。

堅田 アルトハウス=リードって、「下品な神学」の人ですよね? 私も、工藤さんの論文に登場する3人の神学者の中で彼女の話が一番好き、ぐっときました!

工藤 そうです。彼女が使う原語が「Indecent Theology」で、今でもどういうふうに訳したらいいのか悩んでいて。同じクィア神学をやっている友だちの中には「自分は”淫らな神学”って訳すよ」っていう人もいたり。「猥褻な」「淫らな」というのは性的な側面を強調した言葉なので、それもすごくいいなと思って。他には「不謹慎な」「不適切な」とも悩んだんですけど、教会の中で「まあ! 下品な」ってみんなに引かれるような、性的な含意と政治的含意の両方があったほうがいいと思って、私はひとまず「下品な」にしたんです。セクシュアリティはキリスト教の中でずっときつくコントロールされてきたものなんですけど、自分たちの経験であったり、「そんなこと口に出しちゃいけない」っていわれるようなところから神学をやっていこうぜ、ってアルトハウス=リードはいっているんです。そこに惹かれて。

堅田 「下品」って、いいと思います!

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Marcella Althaus-Reid, Indecent Theology

注:日本基督教団教師/信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会〔ECQA〕代表/大学非常勤講師

奉仕の先頭を切るべき「牧師夫人」になって

工藤 私は親がクリスチャンだったので、なんとなく小さい頃から教会に連れて行かれて、高校生のとき洗礼を受けたんです。けど、改めて考えてみると自分がキリスト教に対していっぱい疑問があることに気づいて。キリスト教の信条を見ながら「いや、私これもあれも信じてないけど」って。それでそういう疑問を口に出せるところに行きたくて、大学で神学部に行って遠藤周作とかキリスト教文学を勉強しました。卒業して出版社で働き始めたときに、仲の良いクリスチャンの男性に、自分はゲイなんだとカミングアウトしてもらったっていう経験があって。彼はそのことも念頭において一生懸命キリスト教の中で活動していたので、それでクィア神学に興味を持ち始めたんです。同時期に私、牧師と結婚したんですよ。聖職者の妻って、仏教とかでもそうなんですけど、自動的にそこで夫と一緒に働く人間になるんです、無賃で。日本のプロテスタント教会では牧師(男)の妻は「牧師夫人」って呼ばれます。

堅田 牧師夫人って何をする人?

工藤 えーと、優しい役割っていうか…いや、なんていうのかな? ひと言で言えばとにかく黙ってニコニコと奉仕をする人ですかね…。たとえば、毎週日曜日に礼拝がありますけど、笑顔で入り口に立ってみなさんをお出迎えして、おはようございます等々といってケアをして、ときには信徒の人たちが直接牧師に話せないことを牧師夫人にまず話して牧師につないでもらうとか。あとは台所やら、とにかく裏方の働きですよね。だから本当にもうバリバリのジェンダーロール! っていう。

堅田 えーっ! まさに牧師のシャドウワークだ。

工藤 夫である牧師の給与内、無償労働です。再生産労働の問題はキリスト教の内部ではさらにややこしいんです。教会という場所全体がほぼ奉仕、つまりボランティアで成り立っている空間なので。その奉仕の先頭を切ってモデルを示すのが牧師夫人だという暗黙の期待がある。教会では牧師以外ほとんどみんな無賃労働しているわけで、牧師夫人だけが「なんで私が女だからといって、こんなことしなくちゃいけないんですか」っていえない。もちろん、牧師とその連れ合いの考えで、自分たちはそういうことはしませんとはっきり赴任地の教会にいう人たちもいるんですが。

堅田 どれくらいやってたんですか?

工藤 日本で1年間、アメリカで5年半やっていました。もちろんその中で個人としての大切な出会いはあるんだけど、やっぱりずっと「牧師夫人」の立場が苦しくて。それは自分の中に内在化しちゃってるプレッシャーでもあって、葛藤しながらもがき苦しんでいました。アメリカでたまたま近くの神学校にジェンダー、セクシュアリティとキリスト教を専門にしたセンターがあって、私が求めているのはこれだと。ここで勉強して何とか自分の生きる道をみつけるんだ! みたいな。だからフェミニスト神学とかクィア神学を学ばないと生きていけなかったっていう感じ。

堅田 そのセンターにたまたま工藤さんはつながれて、生きることができた。

工藤 そうです。本当にそう!

堅田 そういうセンターっていうのはわりとよくあるんですか?

工藤 そこはかなり先駆的な神学校だったんですよ。そのセンターができたのは2000年なので、アメリカの神学校でも早かったんじゃないかな。こういう話をするとそんなにキリスト教が嫌だったら出ていけばいいのにっていわれるし、もちろん自分で思うこともあるんだけど、たとえばキリスト教から出て行ったからといって簡単に女性差別から逃れられるわけではない。この社会全体に組み込まれているんだっていうことに気がついたので、まずは自分の足場でもがき続けるしかないのかなと。

どんなふうにフェミニズムに出会った?

堅田 すごく共感します。工藤さんはきっとそこで私には想像できないくらい大変な思いもされてきたと思うけど、でもそこにとどまるからこそ生まれるものがありますよね。そのもがきは尊い。それって、工藤さん自身が「生きるためのフェミニズム」が必要だったっていうことなんだなって。

工藤 だから、すごく個人的な動機なんですよ。2019年に特集を組んだときは、知り合いのひと言がきっかけだったし。その人に「フェミニズムなんてもう必要ないし、古い思想だよね」っていわれたんですよ。私のけぞって、マジか! って。「日本は男女平等が達成されてるから、もういらないじゃん」って。ああ、本当にこんなふうに思ってる人いっぱいいるんだなと実感して、それで『福音と世界』でも特集やらないといけないって強く思ったんです。最初は特集タイトルを「怒りのフェミニズム」にしようかとも思ったんだけど。

堅田 いい!

工藤 でも、ただでさえ日本では〈フェミニスト=怒ってる〉みたいなイメージがあるじゃないですか。感情的とかなんとかいわれて、またそういうイメージが強化されるのも腹立つなと思って。それよりも、フェミニズムがいかに私たちにとって切実な、生きるためのものかっていうことが伝わればいいなと思ってつけたんですよね。堅田さんの本のタイトルはどうして「生きるためのフェミニズム」になったんですか?

堅田 実はもともと提案されていたのは全然違うタイトルだったんです。でも、私結構頑固というか、そのタイトルがどうしてもしっくりこなくて、「絶対やだやだ!」 ってゴネたんです。代わりに「パンとバラのフェミニズム」にしたいってゴリ押ししてみたんですけど、それではなんの話かわからないっていわれて(笑)。

工藤 わかる人はすでにわかっているけれども。

堅田 同じことをいわれました! それで土壇場になって、丹野さんと宮川さんと夜中までかかって話し合って、ああでもないこうでもないといっていたところに、宮川さんが提案してくれたこのタイトルが降臨したんです。

工藤 そんな経緯があったんですね。堅田さんはどんなふうにフェミニズムと出会ったんですか?

堅田 実は私も、学問としてのフェミニズムに最初に出会ったわけじゃないんです。大学でフェミニズムについて体系的に学んだこともないし、自分の主要な研究テーマもフェミニズムではなくて、ずっと社会福祉学というところで貧困研究をしてきました。国家がいかに貧困者を統治したり管理したりしてきたか、ということを研究してて。本にも書いたんですけど、路上にいる人たちとお付き合いをしていく中で、なんか私ナメられてる? みたいなことが結構あって。私にとって路上って、大好きな空間なのに心から安心できない、ちょっと居心地悪い、みたいな。それがどこからくるのか全然わからなかった。私、ぼけーっとしているから(笑)。それで、この居心地の悪さはなんだろうと考えていたときにフェミニズムに出会ったんです。そうかこういうことだったんだって、言葉を与えられたっていう感じでした。

工藤 なるほど。みんな個人的なところからですよね。

堅田 個人的な動機なしには生まれない。あ、それでね、最後に聞きたいのが、それでもなおキリスト者であるっていうのはどういう気持ち?

工藤 あまりわかってもらえないかもしれないんですけど、私はキリスト教っていう枠組み自体を、キリスト教内部のロジックとか言説を使ってガンガン揺るがしていきたいという気持ちがあるんです。キリスト教が本質的には良いものだとか、本当のメッセージは女性解放につながるものだっていうふうに考えているフェミニスト神学者も多いんです。当然、信仰ってそういうことだと思うので、そういう人たちを否定する気はまったくないんだけど、私自身は少し違う方向性をとりたいなと。なんか、「生きるためのフェミニズム」っていう言葉がますます切実になっている感じ、ありませんか? 最近いつも友だちとのメールの締めくくりに「次会えるまで、なんとかサバイブいたしましょう」とか言いあってて。

堅田 内部から揺るがしていくという工藤さんのスタンス、素敵です! たしかに最近サバイバルモードですが、かといって「生きるため」って言わなきゃいけない状況が続いていくのはしんどい(笑)、嫌ですね。今日はありがとうございました。

工藤万里江(くどう・まりえ)
新教出版社『福音と世界』編集部で働くかたわら、ジェンダーとセクシュアリティ、キリスト教について研究中。都内大学で非常勤講師も務める。

(2021年8月24日収録 構成:丹野未雪)


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