タバブックスの本棚から12─家族
『仕事文脈』vol.20のテーマのひとつは「家族×仕事」だ。ここ2週間くらいそのワードが私の頭にへばりついて、なんだかぐるぐると考えてしまった。
「家族」で連想するものはいろいろあるけれど、やっぱり今思い出すのは、何年か前に同世代の知り合いがインスタで書き綴っていた、「生物としての義務だから、将来的には結婚と子どもはなんとかかんとか」みたいな言葉。
家族を作るのは「生物としての義務」らしい。つがいになって、子どもを作って、遺伝子を残して、国民の数を、人類の数を増やして、ホモ・サピエンスという種を残す。それが「生物としての義務」。
すごい責任感だな、と思う。でも人類が滅びないように、「生殖可能な」男女が結婚し子どもを作ることを「生物としての義務」というなら、人類が生活できる地球環境がなくならないようにすることは「生物としての義務」ではないんだろうか。もしくは、せっかく作った子どもが自殺したり戦死したりしない社会にすることは「生物としての義務」ではないんだろうか。
子どもを作ることには責任を持っても、産まれた人が生きる世界には責任を持たないってなんなんだろう?といつも思う。「選挙に行け」なんて一言もいわない親が、「孫の顔見せろ」とだけはいうとか。孫がオギャーって産まれさえすれば、孫が生きる社会が地獄でもいいんか?と思う。あと書店の児童書コーナーにSDGsの本が並びまくってるとか。勝手に産んでおいて、前の世代の尻拭いをさせられるってなんだよ?と思う。
そういう社会的責任からは目を背け続けているくせに、「生殖可能な」カップルの特権だけは死守しようとする国や裁判所に今いちばん腹が立つ。つい3日前も大阪地裁が同性婚を認めないのは合憲という判決を下したし、2年前は同性愛が広まれば「足立区滅びる」とか言っちゃうおじさん区議もいた。
そういう奴らがいう「家族」像を、インスタで「生物としての義務」とか書いていた同世代の知り合いも刷り込まれて、なんなら実行して生きていくんだと思うと、ますます「家族」という言葉に気持ち悪さを感じてしまう。それに、そういう奴らが権力を牛耳ってる社会で、自分の子どもが生きなきゃいけないのは酷すぎるから、やっぱり家族なんか作りたいとは思えない。
サムネイル画像は『仕事文脈』vol.20の裏表紙のイラスト。伏せられた家族写真が今回の暗い本文とマッチしてしまった。
(げじま)