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タバブックスの本棚から06 ─脱コルセットと私

”以前、脱コルセットのメリットについて話したとき、女性が主体となったときに持つ重い視線について話しました。
私がにらむと、男たちが先に視線を外すこともあります。脱コルセットが見られる側からにらみ返す側になる(countergaze)瞬間をつくるんです。”

5章 平面的な自我イメージから 立体的な自分へ

タバブックスの最新刊『脱コルセット:到来した想像』がおもしろい。おもしろすぎてこの連載1回分では足りないため、3回に分けて語らせてほしい。

「脱コルセット運動」とは、韓国で若い世代を中心に、ルックス至上主義や規範的女性性への抵抗として広まった運動だ。SNSで#脱コルセット認証 というハッシュタグとともに、粉々に砕いたアイシャドウやつぶした口紅の写真をあげる。長い髪をバッサリ切り、ツーブロックに刈り上げる。スカートやハイヒールを身につけるのを止める。かれらは女性にだけ課される「着飾り労働」を中止し、男性にだけ許されていた人間らしさを取り戻していく。

この本では、『私たちにはことばが必要だ』、『失われた賃金を求めて』で知られるイ・ミンギョンさんが、脱コルセットを実践している17人の女性たちに聞き取りをする。かれらの語りを聞きながらミンギョンさん自身の経験が想起され、話し手と聞き手の声が重なり合いながら進んでいく。さらに日本語版は、8人の女性翻訳者によって訳され、複数の声が響き合うような本になっている。


今回はこの多声的な本に共鳴するように、私自身の文脈に引きつけて脱コルセットについて考えてみたい。

私は、韓国でこの脱コルセット運動を主導した1990年代後半~2000年代はじめ生まれの世代と同世代だ。だからなのかは分からないが、この本を読みながら共感するところしかなかった。

私が「脱コルセット」ということばを知ったのは、今年2月にタバブックスに入ってからのことだ。だが振り返ってみると、私はそのことばを知る前から、もっと言えば「フェミニズム」ということばを知る前から、「脱コルセット」的な実践を部分的に行なっていたのかもしれない。

最近ですか? 最近は、ほかの学生たちが化粧に使う時間に私はもっと勉強をしようって、朝ご飯をちゃんと食べてからテストに行こうって思います。(ヘギョン)

10章 分裂から 統合へ

一番最初に脱コルセット的なことをしたのは、大学受験の頃だ。高3の夏に長かった髪の毛をバッサリ切ってショートボブにした。そして受験が終わるまで「スカート履かない宣言」をした。

その理由は、この本で言うところの「着飾り労働」にかかる時間と脳の容量を受験勉強にまわすためだ。私が髪を洗い、トリートメントをしてドライヤーをかけ、前髪を巻いている時間に、髪の短い同級生の男の子たちは勉強しているのだと気づいた時、ばかばかしくなって切ってしまった。駅から学校まで自転車に乗るのに、スカートの中が見えないように内股で漕ぐのにもあほらしくなって、ジーンズかジャージのズボンを履いて立ち漕ぎで爆走することにした。

男子と同じ条件で受験生活を送り、志望した大学に合格した。

私はこの時期の半年間、初めて自覚的に規範的女性性を手放した。「フェミニズム」に出会う5年前のことだ。


だが残念なことに、大学に入ってから私は人生で最も「女らしい」生活を数年送ることになる。再び髪を伸ばし、大股で歩けないタイトスカートを履き、メイクをするようになった。

そんな「大人の女性」を模倣するような生活のなかでも、着飾りについてどうしても許せないことが一つあった。パンプスの着用だ。

大学1年の頃にやっていた販促のアルバイトで1日立って仕事をしていたら、いつの間にかかかとが濡れていることに気づいた。汗だと思ったら流れていたのは血だった。

これで就活をやるなんて嫌だと思い、大学3年のときに「パンプス捨てる宣言」をした。

パンプスの形がダサいし、怪我するものをなぜ履くのか意味がわからないという理由だった。男性と同じように革靴を履きたいと思った。

同年、石川優実さんが#KuToo運動を始めていた。そのニュースを見ての行動だったのかはよく覚えていない。

私はそのとき、まだフェミニストになる前だった。まだ私の頭の中では、自分の身体の不自由と女性差別の問題がうまく結びついていなかった。

日本の「#KuToo」キャンペーンで、「KuToo」は「靴」を意味すると同時に「苦痛」をさしている。

4章 美しさから 痛みへ

苦痛を着飾りの一種と思わせる文化では、着飾りは苦痛を誘発するだけでなく、女性が苦労して耐えながら、身体に加わる苦しみを我慢することを「いい子」から「崇高な母」までのさまざまな物語として語り、美徳だと称え、強化する。

5章 平面的な自我イメージから 立体的な自分へ

パンプスを捨てても、私の着飾り労働は続いていた。

それを徐々にやめるようになったのは、留学中にコロナのパンデミックが始まってからのことだ。


まず、再び髪をバッサリ切った。長さ約30cm、重さは300グラムだった。

今度は受験期やパンプスのときのように実用的な理由だけではなく、規範的女性性への疑問と、異性愛シナリオからの脱出という意図を持って切った。切ったときの日記で私はこう書いている。

“結局はそういう私も「縛られていた」ではないか。誰かにとって、異性にとって魅力的であることに。長い髪の方が美しいという価値観に。
切られた髪の毛のしたいは今まで社会のビューティースタンダードの奴隷だった過去の私の死体だ。もしくは過去の私を縛り付けていた無意識の思い込みや通俗的な価値観の死体だ。”

男性の視線を前提として「女らしさ」のために奉仕していた自分と決別するために、私は髪を切った。

バッサリ切った後にやっと、それまでのシャンプーやドライヤーなど長い髪のケアのためにかかっていた時間や手間、髪の重さ(約300グラム、りんご1個分)のために肩や首にかかっていた負担を思い出した。

『脱コルセット:到来した想像』の5章でジュヨンが、頭皮が熱くて脱毛症だと思っていたら、髪を短く切ってから症状がなくなり、長い髪をしばっていたせいだったと気づいたというエピソードがある。ジェヨンが病気を自分で作っていたことに気づいたように、私も自分の肩こりが長く重い髪のせいだったことに気がついた。

そして髪を切った頃、私はブラジャーをつけなくなった。家の中でも、外に出る時にもブラジャーをつけずに歩くようになった。

つけなくなって初めて、それまで自然化して麻痺していた、ブラジャーのキツさ、着心地の悪さ、ワイヤーで締め付ける不自然さ、服に身体を流し込んでいるような感覚にも気がついた。

ZINEにもブラジャーの話を書いた。

現在進行形で自分に起こっている不快感や苦痛は、それが無い状態を体験しなければ自覚できないのだと思う。

頭では分かっていても、実感として解放されてみてはじめて、それまで被っていた抑圧の重さに気づく。

脱コルセットは自分の気持ちを考慮するための運動だ。男性の目を気にし、文化的に容認される論理に従って鈍感化が進んだ、その苦痛に居心地の悪さを感じとるための運動なのである。脱ぎ去るべきコルセットがどこからどこまでを意味するかは、それを身に着けている状態ではわからない。わかっているから脱ぐのではなく、脱いでこそわかる。

4章 美しさから 痛みへ

つけなくなってしばらくしてから、私は日記にこう書いている。

“そういえば半年くらい前からブラをつけなくなった。
つけなくなったら、今までなんで、なんのためにつけてたのか分からなくなった。
「誰か」の視線からも自由になった気がする。
ブラをデザインした人の視線、ブラをするように教えた母の視線、襟ぐりからのぞいたブラ紐の色がセクシーだと言った友達の視線、名前も知らない誰かが私の胸を見る視線、私の身体に対する私自身の視線、、
押しつけられた理想の身体に、自分の身体を押し込んでいた。”

この頃には自分の身体を対象化する視線について明確に意識しながら、「ブラジャーをする」という労働を中止している。

他人の視線を通じて「見える身体」という対象の位置から、私の視線を持って「見る身体」である主体の位置へと移動する。

5章 平面的な自我イメージから 立体的な自分へ

そして今、この本を読んだ後、新しい変化が私に起こっている。

1章で著者のミンギョンさん自身が口紅を捨てたという一節を読んで、外出する時にオレンジ色のリップを塗ることをやめられなかったことに気がついた。

マスクをしていてさえ、その下でリップをしていなければ自信が削がれる気がしていて、血色の悪い唇のままで外に出ることに抵抗があった。

だが1章を読んだその日に、やめてみた。

やめてみて、リップスティックで色を「付けた」唇ではなく、何も塗っていない唇のほうが本来はデフォルトのはずだったことに気がついた。それを私は昨日まで、オレンジ色に塗った唇をデフォルト値0だと思い込んでいたのだ。だから塗っていない状態を「不足している」マイナスの状態だと考えていた。

グレタ・ガーウィグが演出しシアーシャ・ローナンが主演した映画、『レディ・バード』の後日談をツイッターで読んだ日だった。シアーシャ・ローナンはノーメイクで映画に出演していたのだが、その理由は、10 代の女の子たちに自分の顔は自然だと感じてほしかったからだったというインタビュー記事だ。街頭大型ビジョンに登場する女性モデルの顔は誰もが化粧をしているということに、私はその日初めて注目した。加えて、こういう社会だと、女性たちが化粧した顔を自分のデフォルトだと思うかもしれないとも一瞬思った。

1章 女から 人へ

私は数日間、口紅を塗らずに生活している。すでに私の本当のデフォルトの顔に見慣れた気がする。

問題の核心は、これまで外部から「自分の身体に刺さる」と想像していた視線を、内部から外部に向けられることに気づいたときの感覚なのだ。

5章 平面的な自我イメージから 立体的な自分へ


(げじま)


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