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タバブックスの本棚から07ー脱コルセットと異性愛

タバブックスの最新刊『脱コルセット:到来した想像』がおもしろい。おもしろすぎてこの連載1回分では足りないため、3回に分けて語らせてほしい。

第1回では「脱コルセットと私」というテーマで、自分自身の体験と脱コルセット運動がどのように重なったのかを考えた。

今回は「脱コルセットと異性愛」というテーマで考えてみたい。

脱コルセットが打ち破ろうとする規範的女性性は、異性愛規範の中の女性性と同義である。(6.美の観点から機能の観点へ)

『脱コルセット:到来した想像』に出てくる脱コル実践者の女性たちの話は、単に着飾ることをやめたことにとどまらない。複数の女性に共通しているのは、異性に対する自分の振る舞いや異性との恋愛関係について再考したというエピソードだ。

例えば6章に登場するジンソンは、もともと化粧や服装にかなり気を使い、マッチョな人とばかりつき合っていたという。そんな過去の自分を「権力者の横にいるトロフィー的な存在」だったと表現するジンソンは、当時の自分の状況についてこのように話している。

異性愛という規範の中で、行き過ぎた女性性を遂行したときに与えられる代理権力に酔っていました。それがまるで自分の権力であるかのように勘違いしちゃって。男から認められていると思ってたんです。それによってルックスへの強迫がまた強くなります。自己対象化って一度ハマったらなかなかやめられません。(ジンソン 6.美の観点から機能の観点へ) 

彼女のことばに、私は「ああ~それな」と思った。同じように「男から認められている」という感覚を欲してオシャレをしようとしたことのある女性は、結構いるのではないだろうか。そしてその「認められている」という感覚は、女友だちからの褒め言葉では満たされず、「恋愛対象となる男性」からの評価でなければ満たされなかったりする。それこそ異性愛規範のコルセットなのだが、コルセットは自分が身につけている間には気づけないものだ。

だがやはり考えてみると、着飾ってやっと「認められる」ということは、裏を返せば、「着飾らなければ認められない」ということだ。しかもその「認める」というジャッジは、常に男性の側に握られているということでもある。

前々回の記事でも書いたように、視線をめぐる力学は男女で対称的ではない。
「見る」という主体的な地位を男性が占め、女性にはヘテロ男性から「見られる」という位置付けが与えられている。その根底には、潜在的な「男性の性的欲望の対象としての女性」という、異性愛のストーリーが存在している。

そしてその異性愛のストーリーは映画や漫画や広告などあらゆるところで流通し、美化されているため、女性が自ら「見られる」という位置付けに自分を置こうとすることもよくある。ジンソンも、7章のテジュや他の脱コル実践者の女性も、そして私たちも。

自己対象化は女性を男性にとっての他者につくり上げる効果を生むが、それは女性個人にはひどく中毒的なものだ。受動的な対象の女性が能動的な主体の男性と関係を結ぶことは、すでにさまざまな物語を通じてロマン化されているからである。(7.男性の他者から、女性として同一視された女性へ)

脱コルセットの意味は、単に女性の身体に制約を加える着飾りを中止することだけではない。
異性からの視線を意識して女性が自らを対象化(客体化)してしまうことの根底にある、異性愛規範から脱するという意味がある。

私がさんざん行き過ぎた女性性を遂行していた頃を知っている男友だちが、あるとき突然、レズビアンになったのかって聞いてきたんです。(ジンソン 6.美の観点から機能の観点へ)

ジンソンがコルセットを脱いで異性愛規範から脱したとき、周りの男性は彼女が「同性愛者」になったと捉えたという。「男(同性)」のような格好をしたジンソンのことを、ヘテロ男性である自分の性的対象として「見る」ことができなくなった途端、彼女のセクシュアリティを自動的に「同性愛者」とみなしたのだ。

そこには、自分がジンソンを「まなざす」という一方的な権力関係を彼女に壊されたことへのいらだちと、「男の格好をする=男の恋愛対象でない=恋愛対象は女だ」という異性愛主義の発想があると思う。

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竹村和子は著書『愛について』のなかで、近代の抑圧的な異性愛主義を[ヘテロ]セクシズムと呼ぶ理由について、以下のように書いている。

男のホモソーシャリティの基盤をなすものが同性愛嫌悪(ホモフォビア)と女性蔑視(ミソジニー)であることからも明らかなように、異性愛主義と性差別は別個に存在しているのではなく、近代の性力学を推進する言説の両輪をなすものである。(『愛について アイデンティティと欲望の政治学』  竹村和子、岩波書店)

女性が男性と同じような格好をする脱コルセットに対する、男性たちの拒否感は、異性愛主義(ヘテロセクシズム)と性差別(セクシズム)が合わさった[ヘテロ]セクシズムのあらわれなのだろう。

脱コルセットをした女性を男性が心から愛しているのであれば、それは女性を、人格を持った一人の人間として愛しているといえるかもしれません。でも、よく見られる関係ではありませんよね。異性愛の恋愛で女性が性的対象として見られ、消費されるのは、人格的な関係を結んでいるとは言いにくい。(ジンソン 6.美の観点から機能の観点へ))

実際、9章に登場するサンミンは、脱コルセットをした姿で男性のパートナーと会ったとき、こんな反応をされたという。

彼氏とつき合っているときに脱コルセットしたんです。ツーブロックにして彼に会ったら、「お前のことは好きだけど、ほんとは人生のパートナーを探してるんじゃなくて、女らしい子とつき合いたかったんだ」と言われて。(サンミン 9.順応から違反へ)

もし女性のパートナーを「人形」ではなく「人間」として見ているならば、自らを対象化する着飾りを女性がやめたとしても関係は変わらないのではないだろうか。それが女性が着飾りをやめた途端に相手への関心が失われるのだとすれば、それは女性を「人形」や「アクセサリー」程度にみなしていたということだろう。

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また、最近日本でも出版された『僕の狂ったフェミ彼女』という小説は、4年ぶりに会った元恋人の女性がフェミニストになっていたという男性主人公目線の物語なのだが、脱コルセットをしたと思われる彼女への男性のまなざしがよく描写されていておもしろい。(この小説についてはまた改めて書きたい)

(げじま)

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