耳かきをめぐる冒険 第六話 寄木細工の子守り耳かき (あるいは赤ちゃんを抱いて渋谷駅を歩いた話)
みなさんこんにちは。タバブックススタッフの椋本です。
この連載では、僕の耳かきコレクションを足がかりに記憶と想像をめぐる冒険譚をお届けします。
さて、今日はどんな耳かきに出会えるのでしょうか?
寄せ木細工の子守耳かき
入手場所 箱根温泉街のお土産屋
かき心地 ★★★☆☆
箱根のお土産屋で購入した寄せ木細工の子守り耳かき。寄せ木を用いた耳かきは数多く存在するものの、寄せ木をメインにするのではなく、あくまで一材料としてさりげなく用いるデザインが非常に珍しい。眠っている赤ちゃんの表情や手巻きの髪留めに至るまで、丁寧なつくりに耳かきへの愛情を感じる一本だ。
ところで、赤ちゃんといえば、先日とある用事のために生後4ヶ月の乳児を抱いた親友と電車で渋谷駅に向かった。田園都市線の地下ホームからパルコ方面に出たいのだが、何せ赤ちゃんを抱いた女性が一緒だからいつものように一人でサクサク歩いていくわけにはいかない。そうすると、見慣れたはずの渋谷駅が全く違う視点で見えてきた。
エレベーターの数が少ないだとか、標識が分かりづらいだとか色々あるのだが、何より人の歩くスピードが早すぎて怖い。歩きながらスマホを操作する人が前から歩いて来るたびに、ぶつかられないかとヒヤヒヤすることが何度あったことか。「私たちは赤ちゃん連れです!」という音声を選挙カーのように流したいくらいであったが、それでもイヤホンをしている彼らには通じないのだろう。渋谷駅は目の見えない人と耳の聞こえない人たちが全速力で行き交う都市の戦場である。とにかく気を張りっぱなしで、やっと地上に出られた頃には友人共々ぐったりであった。
このエピソードで重要なのは、渋谷駅の設備や歩きスマホが悪いということではなく、むしろ自分自身に対する反省の視点である。今回の体験を経ることで、もしかするとこれまで自分も知らず知らずの内に誰かにとっての脅威となっていたかもしれないという”見えない可能性”が浮上してきたのだ。だってイヤホンで音楽を聴きながら早足で駅のコンコースを歩くなんて日常茶飯事だから。もちろん自分にはそんなつもりはないし、むしろ言葉の上では「より良い社会」や「相互理解」などという理想をしばしば口にしていたわけだが、現実感覚の欠けた思想は無自覚の暴力を生み得るということに身を持って気付かされた。
ただし、今回は自分には見えていなかった「赤ちゃんを連れた人の視点」を実際に体験できた稀有な事例であり、多くの場合「他者の視点」を体験する機会なんてまずない。そう考えたとき、"体験"することなしに「相手の立場に立って」あるいは「自分ごと」として他者を考えることはできるのか。もう一歩踏み込むと、僕らは目の前の相手のことを本当に理解することはできるのだろうか、という問いが立ち現れる。
哲学者の大森荘蔵は、著書『流れとよどみ』の中で「ロボットに心はあるか」という考察を展開している。例えば、歯医者の椅子の上で呻き声をあげているロボットは本当に痛がっているのだろうか。ただ痛い振りをしているだけなのではないか。ロボットに「本当に痛いのか」と尋ねれば、もちろんのこと「何言ってんだ、痛いったら痛いんだ」と答えるだろう(そしてその夜日記に差別待遇を受けて心が痛んだ、と書くかも知れない)。うそ発見器にかけたところで、人間の場合とは違う反応であろうがとにかく嘘をついているときのロボットとは違う正常な反応を示すだろう。痛い、とか、うまい、ということは細胞の興奮とか神経伝導とはまったく別種のものであるから、結局のところロボットが本当に痛いのか決め手はないのである。
そして大森は、このことは自分から見ての他人、つまり他人の始まりである親兄弟を含めて自分以外の人間はすべて上述したロボットと同じ位置にあると主張する。なぜなら自分以外の人間が感じるのと同種の痛みを感じているのかどうか、自分に見えるのと同種の赤色が見えているのかどうか、それを確かめる方法は原理的にないからである。そう考えると、相手の「本当の痛み」を想像することは不可能であり、私にできるのは私の自作自演の想像だけではないか、と大森は言う。すなわち「私」と「あなた」の関係性は、両者の間を”自作自演の想像力”が飛び交うことによって成立するのであり、言い換えると、僕らは主観的に想像することでしか他者にふれることができないということなのだ。
とするならば、僕たちは本当の意味で「相手の立場に立つ」ことはできないのかもしれない。僕たちにできるのは、自分の想像力を相手に投げかけることだけなのだ。しかし、だからこそ、僕たちは異なる視点の人たちの考えを学ばなければいけない。そして、自分に見えている世界を更新し続けなければならない。それも根拠のない想像力(=妄想)ではなく、「異なる視点」を持つ人たちの言葉にしっかりと耳を傾けるという態度を通してー
「社会」などというものがあるだろうか?石を投げれば人間に当たる。「社会」というものの本体は人間である。そこでは異なる視点を持つ無数の人々が、お互いに影響を与え合いながら思い思いに行動している。だから、もしも「より良い社会」というものがあるのだとしたら、それは異なる人々の関係性の間にこそ存在し得るのだと思う。想像力でしかふれ合い得ない、私とあなたの間にこそ、より良い社会は実現するのである。
(椋本湧也)