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新米アルバイトのつれづれ日記05

こんにちは。少しずつ日が長くなってきましたね。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて、いきなりではありますが、今回、わたしは怒っています。ある日Twitterを眺めていたら目に入ってきた「自然生殖可能性」の文字に。
もうお分かりでしょうか。9日に行われた、同性カップルの結婚が認められないことは違憲かどうかを問うた口頭弁論で、国側が行った主張です。「なぜ結婚が男女のカップルのみに限定されているのか」という問いに対して、国は、婚姻の目的が「『自然生殖可能性』のある関係性の保護であるため」としました。また、「同性カップルは異性カップルと同等の『社会的承認』を得ていないため認められない」とも。(参考:婚姻の目的「自然生殖可能性?」同性婚訴訟、国の論理破綻と差別の助長(松岡宗嗣) - 個人 - Yahoo!ニュース

最初、なにを言っているのかよくわからなかったのですが、どうやら国によれば、男女が子どもを産むことを想定するのは「自然」であり、それを保障するのが結婚。よって「自然に」生殖する可能性のない同性カップルの結婚は認められない、と。

子どもを持たない異性のカップルや、子どもを育てている同性のカップルもいるじゃないかとか、言いたいことは山ほどあります。でもなにより、「子どもを持つ/持たない」という個人の判断に、「自然に」という語でさも当然のように国が口出ししてくるのが怖い。というか、気持ち悪い。思わずスマホのニュースサイトを閉じました。

現在わたしには同性のパートナーはいませんが、それでも、「自然生殖可能性」うんぬんという主張を聞いたとき、他人事ではないと感じています。異性と結婚し子どもを持つことが「自然」とされる世の中ならば、結婚の予定も出産するつもりもないわたしもまた「不自然」なほうに振り分けられてしまうからです。考えてみれば、先日亡くなった石原慎太郎はセクシュアル・マイノリティに対しても「どこか足りない感じがする」、子どもを産めない/産まない女性に対しても「無駄だ」といった差別発言を繰り返しました。また、自民党の杉田水脈議員によって「LGBTは生産性がない」という発言がなされたのはたった4年前のことです。このことばも、セクシュアル・マイノリティ当事者でないひとにとっても危険な差別だったということができるでしょう。

「自然だ」「自然でない」「無駄だ」「生産性がない」……こうしたことばを聞くとき、ことばはわたしたちをつなぐものであると同時に、わたしたちを切り離し、遠ざける力もあるのだと痛感します。「自然な」カップルと「自然でない」カップル。「生産性のある」ひとと「生産性のない」「無駄な」ひと。いやいや、わたしは「自然で」「生産性がある」人間です、そう反論したとたんに、ことばの切り離す力はいっそう強くなり、溝は深まります。抵抗すべきは、そもそも社会に線を引いて切り離そうとする論理のはずです。

もう一度スマホを取り出し、内心恐る恐るTwitterを開きます。自分の、フォロワー数の少ない非公開アカウントで「自然なカップルも不自然なカップルもいないはず。#結婚の自由をすべての人に」と呟いてみました。ことばが、ひとびとを分断するのではなく、つなぐものであると再確認するために。


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