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さわる社会学 第六回  ほとんどすべての女にとっての経験/堅田香緒里(仕事文脈vol.16)

 タネさんとの出会いをきっかけに(「さわる社会学」第一回参照)、私は路上に、そして路上のコミュニティに、出入りするようになった。野宿をしている人たちの「運動」に足を突っ込んだり、野宿をしている人たちを「支援」する活動に関わったり、自分もただ野宿してみたり。次第に、自由で、人間の生=労働の臭いの充満する路上の雰囲気に魅せられ、私的な時間のほとんど全てを路上で過ごしていたような時期もあった。けれども私は、どうしても、一つの場に長く留まることができなかった。寿(横浜)の他に、渋谷や新宿、山谷、そして夏休みの間は釜ヶ崎(大阪)まで足をのばしたりなんかして、とにかくフラフラしていた。フラフラしていたので、タネさんと築いたほどの「親密な」関係を、路上を生きる特定の人と築くことはほとんどできなかった。「運動」の担い手としても中途半端だったし、いつでも頼れる「支援者」にもなれなかった。むろん路上の「仲間」にもなりきれなかった。

▼「生活保護(フクシ)、受けられないかな」

 私は、どうしようもなく路上に魅かれながら、とうとう路上のコミュニティにホーム感(そこが自分の居場所であるような居心地の良さ)を感じることができなかったのである。私はそのことについてずっと、どこか後ろめたく思ってきたし、フラフラしてばかりで落ち着きのない自分を、ふがいなく、情けなく、恥ずかしくすら思っていた。本当は、一つの場所に留まって、路上の仲間と一緒に地に足のついた活動をしたり、ともに生きたりしたかった。でも、どうしてもできなかった。だけど、それは本当に、私のふがいなさだけに起因するのだろうか? そんな気持ちもどこかにあった。
 新宿で野宿していたヤスオさんは、いつも青いキャップをかぶっていた。歯がボロボロで、上の前歯にも下の前歯にも欠けがあった(周りのおっちゃんにも「歯抜け~」とよくからかわれていた)のだけれど、そんなことは意に介さずに、いつも口を大きくあけて、ガハガハと気持ちよく笑う人だった。ヤスオさんの根城は新宿西口の路上で、私はその頃新宿西口でティッシュ配りのアルバイトをしていた。そんなこともあって、私とヤスオさんはたまに新宿の路上でお喋りするようになった。ヤスオさんは各団体の炊き出しの味のランキングを発表し、私はアルバイト先の愚痴を大袈裟に披露したりして、笑ってばかりいた。ヤスオさんはとても陽気で、同時に、誰よりも深く大きな寂しさをいつも抱えて生きている人だった。
 凍てつく寒さの冬のある日、風邪をこじらせすっかり弱気になって毛布にくるまっていたヤスオさんに、ホットの缶コーヒーをねだられた。ヤスオさんに何かをねだられるのは初めてだった。私はヤスオさんのために近くの自動販売機に走った。自分の好みで無糖のブラックコーヒーを買って届けると、砂糖入りのミルクコーヒーを欲していたヤスオさんから酷くなじられた。「だったら、最初に言えよー」と心の中で舌打ちしつつ、結局、もう一度自動販売機に戻って砂糖入りのミルク―ヒーを買いなおし、ヤスオさんに手渡した。その夜、私とヤスオさんは、それぞれ無糖のコーヒーと砂糖入りのミルクコーヒーを飲みながら、いつものように日常の情けないことを笑い話に変えて、ただ喋り続けていた。缶コーヒーもカラになった頃、ヤスオさんが聞き取れないほどの小さな声で、こう言った――生活保護(フクシ)、受けられないかな。
 ヤスオさんには軽度の知的障害があった。小さな頃に生き別れた親については、その顔も覚えていないという。学校にも「まったくついていけない」し、「まともなシゴト」にもありつけなくて、10代の頃から、たった一人で、法に触れるか触れないかギリギリのこと(というか、まあ、ギリギリ「アウト」なこと)なんかしながら、しのいできた。刑務所に入ったことも何度かある。刑務所での暮らしについて、「飯もうまいし、暴力のないときは天国やった」と歯抜け顔でよく話してくれた。「ワルイこと」をたくさんしてきたヤスオさんだけど、「フクシだけは受けたくない」と常日頃言っていた。ヤスオさんにとっては、「フクシを受けること」の方が、法スレスレ(というか、アウト)で生きていくことよりもずっと「ワルイこと」であり、「ダサイ」のだ。そんなヤスオさんが、消え入りそうな声で、フクシを受けられないかとたずねている。事件だ。
 私はすぐに動くことにした。翌日は日曜で福祉事務所がお休みだったので、翌々日の月曜の朝、新宿西口で待ち合わせて、ヤスオさんと一緒に歌舞伎町にある福祉事務所へ向かった。いつも陽気でお喋りのヤスオさんが、福祉事務所までの15分ほどの道中、ほとんど一言も発しなかった。足取りも重い。沈黙の中、私たちは福祉事務所に着いた。さあ、いよいよ生活保護を申請するぞ! と心の中で息巻いていた私の勢いを制するかのように、ヤスオさんが静かに言った――「ありがとう。もう帰ってくれ」。びっくりした。鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのがあるとしたら、その時私はちょうどそんな顔をしていたはずだ。いつもヘラヘラ笑っているヤスオさんが笑っていない。歯抜けも見えない。強い意志を感じて、私は一人、帰ることにした(あーあ、このためにバイトずる休みしたのにな)。

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