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生きるためのフェミニズム おしゃべり会 第5回 ゲスト:栗田隆子(文筆家)

堅田 生きるためのフェミニズムおしゃべり会、第5回は栗田隆子さんをお迎えしました。実は今日すごく具合悪くて…なぜかというと明日から大学の授業が始まるので、たぶん体がストライキを起こしたんじゃないかなって(笑)。いつもはおしゃべり会の前に少し準備するんですけど、今日はそんなわけでできなくて。

栗田 堅田さんとお会いするとき、体のトラブルに見舞われるタイミングが多いですよね。

堅田 そう、何だっけ、ええとキノキュッヘでの映画『母たち』の上映会の時も。

栗田 東アジア反日武装戦線の家族に関するドキュメンタリー時ね。まだ診断が下りてなくてとりあえず来ちゃったって言ってた。

堅田 どんどんひどくなって、足痛い痛いってずっと言いながら映画見てた(笑)。でも栗田さんに思いがけず会えて嬉しかったです。 

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私たちの体が揺らいでくるのは、明らかに社会と関係している

栗田 身体がものを言う時があるんだろうね。

堅田 そう、それを実感します。栗田さんもそういうのあります?

栗田 私は不登校がまさにそうだったから。ガチで学校に行かないストライキ、もう体動きませんみたいな。私は鬱とかも、気持ちより体調の悪さの方で出てきちゃう。愚痴ったらスッキリするよとか言われるけど、感情の方が遅れて来るから言葉にならないんですよ。体がもう無理と先に声をあげる。だから傷ついた感覚よりも、バーンと倒れたりするから周りはびっくりする。体と自分の感情と社会状況が連動してると「生きづらい人」みたいな枠にはめられるんだけど、その生きづらいという言葉もなんか最近抵抗感が出てきて。また個人化するの?みたいな。生きづらい人みたいなレッテルを貼られて、そういう人への「就労支援」みたいが必要とか言われる。この10年を見ても、社会へ向けて使ったはずの言葉が個人に収斂していってる、というのは思います。

堅田 それめっちゃ思います、個人化。具合が悪いことも、ライフハックで何とかしましょうとか、そういう方向になりがちで。

栗田 今だとやたら免疫力を上げましょうとかさ。さっきダイエットの話してたんですよね、私が痩せたという話だけど、ダイエットって体重をコントロール必要があるとか言うじゃないですか。でも私がダイエットできたのは、障害年金を取れて生活の中でいろんなことをする余裕が出てきたから。自分のコントロール力でダイエットできたって思えなくて。社会状況体は連動していて、人は体をコントロールするのではなく、体とともに生きているというか。体重が減ったり増えたり、病気になったりならなかったりすることも身体が社会につながってるっていう部分で。それをちゃんと見ないと、ダイエットできたことがすぐ個人の努力として個人化されやすいのかなと思ったりするんですけど。

堅田 うん、すごい共感します。コロナ太りって言われるのもそうですよね。私たちの体が揺らいでくるのは、明らかに社会と関係している。栗田さんは『ぼそぼそ声のフェミニズム』とかでも、労働運動に参加する気力体力がないという話をよく書いてるじゃないですか。それは栗田さん個人の気力体力が弱いことの問題ではなくて、むしろその逆で、そういう人が参加できないような運動や社会のありようが問題だという、そういう視点がすごく大事だなと思います。全部共通してますね、ダイエットも。

弱者とかノイズを、気の弱さとイコールで結び付けられるのは気をつけたほうがいい

栗田  最近、ある集まりで「労働運動と貧困運動やってる人たちが分かれていないで、一緒につながればいいのに」とを言う人がいたんです。でもそれ10年前も聞いたし、もしかしたら20年前もそう言ってたかもしれない。過去を顧みないで、なぜつながれなかったのかという原因を探らないで、今まで繋がろうとしてこなかったかのように語るのはどうなのか、と。この10年間、貧困運動という言葉が出てきて実際ネットワークができて運動とかして、いろんなことをやってきたわけじゃないですか。

堅田 わかります。安易につながろうとか言えないですよね。

栗田 いやもうつながる手前にいるよって。私は最近歴史改ざんという問題に関心があって。だって、そもそも過去のことを嘘つくってすごくない?ある種「弱い者」とされた声を書き換えて、削り取って、声を聴かない以上に嘘をつくっていう状況がすごい。うまくいかなかった、ノイズとされた言葉はなにかを振り返らないと、それを知らない若い人をもまた巻き込んで同じこと繰り返すの?とすごい怖くなって 。社会運動で繋がれなかった歴史ちゃんと省みようよっていうのはどっかで言っとかなきゃと思ってます。

堅田 すごい重要なことだと思う。そのノイズみたいなことでいうと、本の中で栗田さん自身が従来の、いわゆる運動からも、いわゆるアカデミックなフェミニズムみたいなものからもちょっとずれててなんか奇天烈な声を持ってきたみたいなことがあって。奇天烈ってまさにノイズとして認識されると思うんですけど、そこにこそ可能性があると思うんですよね。

栗田 ただ、ノイズっていうのは後から振り返ってわかることで、当時は自らノイズとして動いてるわけじゃなくて、結構ちゃんとしたこと言ってるはずなのだけど、なんか変な拡声器をつけられてノイズとして処理されるってことですよね。
堅田 それはすごくわかります。

栗田 よく「弱い立場の人」というけど、その時々では全力で声あげてるんですよね。弱いっていう言葉もすごく難しくて。例えば今上映されている「サマー・オブ・ソウル」、1969年に黒人がオーガナイズした、ニューヨークのハーレムで行われたフェスの記録で、50年間一切放映されることなく倉庫に眠りっぱなしだったものが映画になったんですが、あれを見るとノイズって言っていいのかと。スティービー・ワンダーとかBB・キングとか今から見るとそうそうたるメンバーが出ている。でもそれもノイズとしたわけでしょ、社会的には。弱者とかノイズを、気の弱さみたいなこととイコールで結び付けられるのは気をつけたほうがいいだろうなと。例えば性差別の話で、「あの女性は強いよ、俺の方が気が弱い」とかよく言うじゃないですか、気の強さ弱さが差別の問題じゃないんだよと。社会的立ち位置の上下とか強弱は気の強さ弱さではありませんって。

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嘘をつかないということ、殺さないこと、
そこから始めないとだめなんじゃないか

堅田 いやほんとその通りだと思います。「過剰姉妹」の話も、そのことをよく表しているなって。何年頃でしたっけ?

栗田 2009年くらいじゃない?「過剰姉妹」は覆面ユニットでございまして。栗田とおぼしき人と、アーティストのいちむらみさこさんとおぼしき人が出てきて勝手に歌って踊ったり、紙芝居して、けどなぜか波乱を呼ぶユニットでした。ちょうど同じ年に忌野清志郎とマイケル・ジャクソンが亡くなったもんだから、一人は忌野さんみたいな格好でイマノキヨコと名乗り、もう1人はヤマンバギャルをリスペクトしたらしき化粧をして、胸には「スリラー」の文字が書かれてそちらはバババさんと名乗って。活動はそんなに多くなくて3回くらいしかしてないんだけど伝説のように語り継がれてます。あれは典型的で結構真面目に、こういうことが必要だと思ってやってるんだけど、思いがけないところから怒られたりして。

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伝説の「過剰姉妹」

堅田 そうそう圧倒的なずれがありますよね、やっぱり。

栗田 運動のスタイルというか、 何を実現させたいかみたいな話し合いの時に、私(栗田)のやり方では権力を持ってる人と繋がれないと言われたことに、当時ある意味ウブな私は吃驚して。それだとゾンビ取りがゾンビになりそうだと思って。まだ安倍内閣の前だから危惧でその時は終わったんだけど、その後本当にゾンビ取りがゾンビになるみたいな事例がいっぱい出てきた。その時はまさに学者と繋がりなよ、学者は利用しなきゃと言われたんです。

堅田 学者と政治家を利用しなきゃと。

栗田 利用して、場合によってはおだてて利用しろとかいわれたんですけど、 しかし10年後結局コロナのこの女性の打撃はいったいどう考えればいいのかって言いたくなります。

―そういうやり方でうまくやってる人はいるんですか?

栗田 やっぱりいますね。 一つの組織の利益としてはうまくいってるんですよ、ただ女性の社会的地位は日本は変わってないですよね、全然。マーガレット・サッチャーが言ったみたいに、この世界に社会なんかなくて、家族と会社みたいな身近な人達しかいなくて、ようするに自助共助がなければ権利なんてないんだみたいな話を皮肉にも思い出しますつまり1つの組織がお金が巡ったからといって、社会が変わるとか、社会の中で女性の立ち位置が変わるかといったらそんなことはない。だけど多分そういう人にとって自分の行動を正当化できる言葉はいっぱいあって、自分は精一杯やって来たとか、この組織はこれだけやってきたとか。多分そういう時に通じあえる言葉がなかったことを放置して一緒に連帯しようってどういうこと、みたいな疑問があります。

堅田 女だからと言っていろんな抑圧や支配に晒されるというのを当たり前と受け止めない、それに対して否、というのがフェミニズムだったんだけど、その否の今の表出の仕方がちょっと違う。栗田さんの『ぼそぼそ声』に、そこにその本質があるということを書かれていて、本当にそうだなと思って。金がないとか弱いとされる人がそもそも運動に参加できなくさせられている、それが問題だし、強くなければ、そして学者や政治家とか権威と繋がるという方法でなければフェミニズムの目標を達成できないっていうのがおかしくて。もう一方で、男女共同参画基本計画とかでは、女性の貧困を解消する取り組みとしてキャリア教育とか職業教育みたいなのが挙げられている。貧困の解消というと、教育とか職業訓練を充実させていこうっていうのが多いじゃないですか。貧乏人ももっと頑張って「能力」を高めて貧困から脱出しましょう、そのための機会として教育とか職業訓練を保障しますよ、みたいな。貧困は今カネがないことの問題なんだから、まずは所得保障をすることが一義的には必要なはずなのに、能力とか努力の話にすり替えられてしまう。同じように貧困にノーと言ってたとしても、そこで結構分かれるというか 。

栗田 いわゆるあのメンタリスト発言の、その後の謝り方が「努力しているホームレスの人もいるのにあんなことを言って悪かった」だったんです。これに私以外も社会運動をやってきた人でも結構まずいと思ったようです。でも『ぼそぼそ声』でも書いたけど、努力はみんなするもんだ、環境が整ってないから努力できない、だから環境が整えば努力して社会に馴染むものだみたいな発想を持ってる貧困対策の研究者とか活動家も結構多い。そもそも努力するか否かを人が生きる礎にするんじゃなくて、もうその生きている事実を礎とする以外ないんでしょって思う。私は最近ケアというものを考えるなら、嘘をつかないということ、殺さないこと、そこから始めないとだめなんじゃないか、と最近考えるんですよ。

堅田 うん、すごく大事なことなんだけど、そんなことから言わなきゃいけないのってちょっと悲しいですよね。そういえばバババさんも「京大幼稚園、東大幼稚園の皆さん、こんにちは」って言ってましたね。

栗田 もう、本当にもう一回学び直した方がいい。

人がただ生きるということに序列を付けられる
凄いグロテスクな暴力

栗田 メンタリストの言う、努力をするもんだって私は嘘じゃないかと思ってて。その努力って仕事に就くための努力しか認めない。路上生活で、たとえばうまくテントを作っていかに楽しく生きるか、なんてのは絶対努力として認めてくれない。

堅田 本当にその通り。努力って、測れないじゃないですか。だからそれを無理やり測るとしたらどうしても代理指標にならざるを得なくて、外形的な振る舞い、一生懸命ハローワークに通っているとか職業訓練に積極的かとかっていうのでジャッジされて。人が生きるということが守られるか、守られないかという大事な問題が、そんなことに基づいているっていうすごい恐ろしいことが起きている。私は貧困とか対貧困政策について研究してきたんですけど、資本主義の初期から国家による扶助みたいなのはずっとあったんです、それが資本主義を支えるという面もあるから。でも、国家による扶助はずっと一貫して、この貧民は援助に値するか値しないかっていうのを常にジャッジしてきた。こいつは労働能力があるかないか、つまり働けるか働けないか、という軸だったり、、道徳的な軸、怠け者じゃないかとか、粗野なふるまいをしないかどうかとか、そういう軸でもって、援助に値するかしないか分類して、貧民を序列化してきたんです。人がただ生きるということに序列を付けられる。それって凄いグロテスクな暴力で、今すぐそれをやめてくれってすごい思う。

栗田  基本は渡したくないっていう発想だからそうなるんだと思う。

堅田 今は本当にそうですね。女性の貧困の問題に対する解消案としてキャリア教育が提案されるのと一緒で、子どもの貧困が社会問題化したときも、結局その解消案として提案されたのは所得保障ではなくて教育だった。そこでは、教育が貧困の再生産を防ぐとかって言われるんだけど、それは子どもの将来の話であって、その子どもはいま現在貧困なわけじゃないですか。そこには取り組もうとしない、なぜなら今ここの貧困をすぐに解消しようと思ったらカネを渡さなくちゃならないから。それはしたくないんだよね。さっき栗田さんがダイエットに成功したのは障害年金があるからだっておっしゃってて、それって当たり前ですごく大事なことなんだけど、そこをしたくないあまりに、教育とか職業訓練と言って本丸をスルーするっていう。あるあるですよね。まず所得保障しろよ、と。

栗田 所得保障すると痩せる人増えると思いますよ。厚労省の健康日本21だっけ、いわゆる生活習慣病減らすためにすごい個人努力を強いるような施策出してるんですけど、そんなの無理無理っていう。

堅田 本当そうですよね。生活保護とかでも今受給者の人に、健康管理とかライフスタイルを管理して自分で整えましょう、そのための支援を充実させますってしてるけど。そういうことじゃないんだけどって。

栗田 だってさあ、ダイエットって献立とか考えなきゃいけないんですよ、そんな余裕を、いろんな意味で切羽詰まってる人が、やれる?。仮にお金があったとしても、ストレスフルだったりするライフスタイルについて社会的な構造を無視した健康問題の考え方って、今のコロナの状況とかにも影響してるんじゃないかな。そもそも検査をしないってあたりがすごい不思議なんですよね。あれだけ特定健康診断なんか受けろ受けろっていうのに。

堅田 たしかに、その点だけ急に消極的ですよね。

厚労省が「生活保護はみんなの権利です」と
呟いたただけで絶賛される世界線って何?

栗田 このコロナ禍でお金をもらうハードルの高さがちょっとね。選別してるとしか思えない。

堅田 本当にそれ大事な話で。カネを得るために壮大な書類を用意しなきゃいけない。

栗田 そういう選別機能が税金払えない人を結果的に増やしてるような気がして仕方がない。私なんか払わないなんて言う不払い運動してるわけじゃないんだけど、もう今は払えない経済状況になっちゃうとか。取り立てルコとしか熱心ではないが税金払う力さえも奪っているんじゃないかな。

堅田 その通りだと思います。生活保護とかでも、やたら不正受給は取り締まるくせに、漏給の問題は永遠に放置されているっていう。

栗田 だって捕捉率なんてもう10年以上前から変わらないね。

堅田 国は、不正受給を取り締まるときに「適正受給」が大事ってよくいうけど、適正な受給って、必要な人にちゃんと届くことだとしたら、不必要な人に届いてしまうことだけではなくて、必要な人に届かないことも問題にしなくてはいけないわけで。実際、不正受給なんて数としてはほんのわずかなのに、そのことを仰々しく問題にしながら、そこを取り締まるっていう名目で、福祉の業界がどんどん警察権力との連携を強めていたりして。一方で、より大きな問題であるはずの、そもそも必要な人に届いてないという点については、ずっと放置されている。メンタリストの件を受けてかどうか知りませんが、厚労省がツイッターで「生活保護はみんなの権利です」みたいなことを呟いただけで絶賛される世界線っていったい何と思って。これまでサボり続けていたことをなかったことにして、やって当たり前のことをほんの少ししただけ、ちょっとツイートしただけで、絶賛される。全く家事をしていなかった夫がすこし家事を「手伝った」だけで絶賛される世界に通じるものがあるなって思います。なんかシャドウワークさせられてる気がする。

栗田 いやもう嘘をつかない、人を殺さないことをまず守ろういうレベルだから。それにしてもいろんな人の努力が無駄になってますよね。だって生存権とか生活保護とか。過去の人が血を流しながら作り出して、脈々と受け継がれてきたもんじゃない?その努力がまさに無駄にされ見えなくなってる。

堅田 そう、まさに今栗田さんが言ったことで、当事者、受給者の人たちもいっぱい要求して声も上げ続けているんだけど、そういう声は軽んじられて、お上がひとこと「権利です」って言ったら超ほめられるっていう。なんなんだろう。

栗田 そこは本当に、やっぱり多くjの人は権威に弱いんだなって。10年前の過剰姉妹の時もそうだけど、権力ある人と仲良くしなきゃと言われちゃうから、政治家や資本家に限らず、社会を変えようとする側も権力に弱いっていう世界線がある。

堅田 変わってないんですね。

栗田さんのぼそぼそ声はすでにEXILEと出会ってる
言葉ってすごい

栗田 堅田さんの本のタイトルにある、「パンとバラ」って、これいわゆる西洋文脈の言葉じゃないですか。この本の場合、左翼の労働運動側が使ってるけど、ローズっていうものそのものは、薔薇戦争とか、古い貴族の紋章でもあったわけでしょ。だから右翼も左翼も使ってるのがすごいなって。日本で例えて「コメと菊」とかいったらいきなり右翼のアイコンになっちゃうから悔しいなと思って、日本では米、麦なんでもいいんだけど、なんかこういうアイコンが右翼に結構持っていかれてる。

堅田  ああ確かに。

栗田 羨ましいっていうか、そこまで根付く右翼も左翼も使えるようなものがアイコンとして存在してるあたりに言葉の強さを感じるんですよね。

-栗田さんの本の、フェミニズムにぼそぼそ声がついたのって、結構画期的ですよね。

栗田 これは言葉がわたしの中に宿ってきた感じですね。私が仮のタイトルとして使ってたのがいつの間にか本当のタイトルになっていて。

堅田 そうそう、それちょっと本にも書いていらしたけど、聞いてみたかったんです。めっちゃいいタイトルですよね。

栗田 これの経緯って、「ナヌムの家」っていう映画があったでしょ、いわゆる「従軍慰安婦」戦時性暴力被害者とされたの人達の映画で原題は「低い声」なんです。映画を見ればすぐわかるし、そうじゃなくてもそういう被害者の方々を知れば、本気が小さい意味での声が小さいという話じゃないっていうことは当然わかるわけですよね。そういうようなことをも伝えられたくて、「低い声のフェミニズム」だと音程が低いのかなと思われる気がして。、それでぼそぼそ声ってなんとなく思いついて仮タイトルに「ぼそぼそ声のフェミニズム」って企画書に書いたんです。タイトルもうこれでいいんですかって聞いたら、うちの編集者もみんなこれで言ってるので、これにしますって言われました。

堅田 おお~、そんな経緯があったんですね。いつも思うんですけど、私、栗田さんのことば使いがすごく好きです。

栗田 ありがとうございます。堅田さんからも推していただいて、本の売れ行きがどんどんよくなりました。まさかずっとこんなにコンスタントに読まれると思わなかった。だって自費出版で出そうと思ってたくらいだから。自費で出すからよろしくね、くらいみなさんにご挨拶だけはしておこうと思って複数の出版社にメールを出したら、商業出版しましょうと声がかかって。だから企画は私が積極的に持っていったわけでもなく、もういいや自分で地味にやろうって思ってた。だから世に出てきた感じもまたぼそ感があるというか。帯も有名人に書いてもらったわけでもなく、フェミニズムの本だと装丁も白って珍しいですよね。堅田 本の佇まいも含めて『ぼそぼそ声のフェミニズム』なんですね。

栗田 それはもう私の意図を超える部分で頑張ってくれる人がいて。私哲学やってたとき、鷲田清一の研究室にいたんですよ。鷲田さんは、なんかちょっといいこと言う芸風なんですよね、それが嫌で出ちゃったんだけど(笑)。当時の知り合いが「ぼそぼそ声か。鷲田さんもそれは思いつかなかっただろうな」って書いてて。うわ、一番そこは距離を置きたかった芸風なんだけどって。

堅田 なるほど。栗田さん自身はそうじゃなくてもそう受け取られてしまうと言う問題であって。

栗田 今手元に本がないんだけど、アドリエンヌ・リッチという人の詩で、「本来敵にしようと思わなかった人も、未来において敵にしてしまうようなことがあるかもしれない、それが言語の特権って」いうような一説があって。言葉って自分はそうしたつもりじゃないのに解釈ですごい広がるし、遠く響く力を持ちますね、本は。

堅田 確かに。それすごく感じるんじゃない、栗田さん。だってすごくたくさんの人に読まれてますよね。

栗田 一番びっくりしたのは、「EXILE」って人たちいるじゃない?。

堅田 え、栗田さんの口からエグザイルって言葉が出るとは(笑)

栗田 その中のメンディさんって人が、男らしさへの疑問といったみたいなジェンダーに関することをブログがかにかで書いていたようなんですそこに『ぼそぼそ声のフェミニズム』がいいってファンの方がコメントを書いて下さったらしい。本の力が、すごいなあと思って。EXILEと「ぼそぼそ声」が出会うなんてて(笑)。私本人は出会うことは多分ないですよ。

堅田 本当だね。でも栗田さんのぼそぼそ声はすでにEXILEと出会っちゃってる。言葉ってすごいね。

栗田 でしょ?もうびっくりしちゃった。メンディー、メンさんて呼ばれてるらしくて「ぼそぼそ声って本がサイトで勧めてた人がいた」(大意)というTwitterを見て、そもそもメンさんて誰?というところから始まって、その人がどうやらメンディーさんがという人だとわかって調べたらEXILEで(笑)。いやでもどちらにしてもやっぱり本の強さ、著者を超えるこの力はなんだろう、と思います。逆にもうわたしは今はあんまりぼそぼそじゃないけどどうしよう、みたいな(笑)

堅田 でも栗田さんは別にぼそぼそしようってしてたわけじゃないし。自分の思うことを自分の思うように表現し続けていただけで。

栗田 それをずっとやっていけばいいということなんだろうけどね。当事者だったり、ぼそぼそ声にさせられているからといって、常に「ぼそぼそ声」を芸風みたいに思う必要はないというか。それはすごい大事な話な気もします。あくまで社会がどうみなすかっていうだけの話で。言いたいことを言っていくということが大事であるっていう。

堅田 言いたいことをいうってすごい大事ですよね。同時に、言いたいことを表現する言葉がないっていうこともある。

栗田 それは本当にね、それこそフェミニズムを知らなくて、フェミニズム的なイシューで悶々としている人はいっぱいいる。

堅田 うんうん、自分もそうだったし、いっぱいいると思います。

(2021年9月16日収録)

栗田隆子(くりた・りゅうこ)
文筆業。1973年生。神奈川県出身。大阪大学大学院文学研究科博士課程中退。その後派遣労働者として働いた経験をもとに女性の労働や貧困問題に取り組む。単著にて『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社2019年)。


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