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兼桝綾「魔女の孫娘たち」(『フェアな関係』) 期間限定無料公開

兼桝綾『フェアな関係』(タバブックス、2022年)収録の短編小説「魔女の孫娘たち」を期間限定、2025年2月28日まで無料公開中です。
著者からのメッセージです。

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「女性問題」が報じられる度、不本意な箱に閉じ込められたような気持ちになります。
「魔女の孫娘たち」は、5年ほど前に書いたのですが、未だに「好き」と言ってくださる方が多い有難い小説です。
それぞれの「私」がそれぞれの身に受けた出来事をねじまげられずに、自らの意志で口を開ける世でありますように、という気持ちをこめて、1ヶ月間無料公開とさせていただきました!

兼桝

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「私たちはあなたたちが火炙りにしそこねた魔女の孫娘」というスローガンで勉強会を行う女性と友人の物語。"あなたとはまた違う苦しみを、受けてきたであろう女のことを思いやる。あなたは話しださなければいけない。"
ぜひご一読ください!


魔女の孫娘たち  兼桝綾


 ルネサンス期のヨーロッパでは、何万人もの女性が「魔女」として処刑された。1970年代のフェミニストたちはこの「魔女」というアイデンティティを自分たちの象徴とし、時には自然界と結びついたスピリチュアルな儀式をその政治運動に加えた。地球環境の悪化が混沌とした状況を引き起こしているいま、再び西洋に魔女が降り立ったとしても不思議ではない。

(『震えよ、魔女がやって来る!』モナ・ショレ/ Le Monde diplomatique 仏語版2018年10月号より 訳:川端聡子)

 2019年6月、あなたが有志による勉強会の名前を「魔女の会」と決めた時、仲間たちからは反対の声が多くあがった。露悪的な印象を与え新しい人が入りにくいとか、「魔女」という言葉に惹かれただけの、勉強不足なお喋り好きが来てしまうのでは、とか。けれどあなたは「私たちはあなたたちが火炙りにしそこねた魔女の孫娘」というスローガンを持ち出して、最終的に名前を決定した。
 勉強会はいかにも魔女たちの集会に相応しい、蔦のからまったカフェの2階を貸し切って行われた。そこは狭くてしかも空調が効かなかったが、あなたたちが親密に膝をくっつけて勉強をするのには良い場所だった。魔術は現代にもかたちをかえてあらわれる。あなたたちはInstagramのストーリーを、Twitterのスペースを、Facebookの共有機能を活用してあなたたちがどのように考えているかを発信した。出身大学主催のミス・コンテストや選択的夫婦別姓に対する各自治体の態度、性犯罪で起訴された被告人に対する無罪判決、望まない妊娠に対する議員の答弁、変えるべきことは、いくらでもあった。
 勉強会にはあなたが大学で知り合った友人たち7名の他、あなたの中学校・高校からの同級生の女が1人参加していた。あなたと彼女は、同じ新幹線で上京した。本当はそれほど、仲が良いというわけでもなかったのだ。けれどあなたの通う学校から、進学のために上京する学生は、あなたとその女しかいなかった。

 その女は普段、オーバーサイズのシャツにズボンという格好でいた。背が高く肩幅の広い彼女はそうすると少年のように見えた。あなたは彼女に対し「どうしてわざわざ男みたいにしているのか」と思っていたが、賢明にも口にはしなかった。あなた自身は、常にあなたが最も相手を惹きつけると予想される装いをしていた。そしてそれは結果的に「女性らしい」ものになった。実を言えばあなたは仲間たちにも、そのようにしてほしいと思っていた。あなたは化粧がうまくなければ、化粧があなた達に課せられているという事実に抗えないと思っていた。あなたはあなたたちに課されている全てのもの、それらをいざとなれば「完璧にやってのける」ことが出来なければ、それらを拒絶する際に、切実な印象を与えられないと思っていた。一方であなたは、それがあなたが戦うべき相手に命じられた姿勢を守り続けることであると、その姿勢のままでは、あなた自身が苦しむことになると知っていた。でも現状しょうがなくない? この姿勢を保たなければ、その瞬間に私は撃たれ、倒されてしまうだろう 。この「魔女の会」が有名になった時、とあなたは夢見た、メディアに顔出ししても、絶対にブスが大きな声だして、なんて言わせない。あなたは夜中、布団を頭までかぶり、スマートフォンを灯して夜営する。インターネットの魔術によりあなたはたくさんの魔女の活動を身近に感じることができるが、同時に彼女らに投げつけられる石も目撃する。あなたはスワイプを繰り返し、アカウントにまとわりつく醜悪なリプライに胸を痛め、それらはあなたにも投げられていると感じ、泣く。あなたは悔しい。あなたは助けてほしい。誰に? 例えば同級生のあの女に。でもあの女は男みたいな格好をしているし、きっと私を助けてくれない。

 2015年の春に、あなたは大学に入学する。あなたは真面目に勉強し、てきぱきと単位を取得する。あなたは優秀な成績を収め続ける。それでいてあなたは新しい学生と知り合う度、相手が自分よりも優秀でないかどうか確かめている。あなたは前期の終わりに、ある講義の飲み会に参加する。そこには同級生のあの女もいる。あなたは教室でそうするのと同じように、その女の隣には座らない。女の横には調子の良い男が、女の前には見た目の良い男が座っている。女には友人が多く、その友人の中には男子学生も含まれる。あなたは調子の良い男の隣が空いていたのでそこに座る。調子の良い男は、同級生の女の身なりと、女にこれまで彼氏のいたことがないことを揶揄する。調子の良い男は、女を指差し、顔のいい男に言う。「一度この人とセックスしてあげてくださいよ!」見た目のよい男が、「今度ね」とあしらう。同級生の女は、マジ失礼だわ、死ね。と言う。あなたは悔しくて、女を見ることができない。机の上の箸袋をじっと見つめている。箸袋には居酒屋の名前が書いてある。そこには何かの油が滲んでいる。女はどんな顔して言っているのか。今すぐ女が怒り狂って、男たちに醤油皿でも投げつけてくれればいいのに。そしてこんな恥知らずな奴らのいる飲み会を台無しにしてくれればいいのに。もしくはあなたがその役割を担ってもよかったのだ。けれどあなたは身体が震えて言い返すことができない。空気を壊すことを恐れて、中座することもできない。帰宅後、あなたは毎日つけている日記に男2人の名前を書き、女の発した声を思い出しながら、女が発した2文字を書く。半年もしないうちに、顔の良い男が重篤な病にかかる。調子の良い男は実家の問題が原因で大学中退を余儀なくされる。これがあなたが呪いを知った最初である。あなたは恐れおののき、日記の頁を破って捨てる。あなたは男たちの顛末について女と動揺を共有したいが、馬鹿にされることが怖くてできない。

 2019年秋、既存のメンバーの紹介で、「魔女の会」に新メンバーが加入する。この勉強会では特定の本を課題としてとりあげ、議論をすることが多い。そして女性の生き方に関する本を取り扱うときは大抵、30分でも1時間でも、自分が女であること故に降りかかっている苦難について1人で喋り続ける女がくるものだ。新メンバーもその手の類で、しかも求心力があった。彼女自身がうけてきた恋人からのドメスティック・バイオレンス、あまりにも考えの古い勤務先に未だのこるお茶くみの風習と考課面談での差別、義実家での不当な扱い等について話すと、他メンバーも共鳴し、次々と自らの悲しみをその場に捧げた。
 数か月し、1人のメンバーがやめる。勉強会発足当時からメンバーへの連絡や事務的な作業を一手に担っていた女性だ。
「あなたにだけいっておくんだけど」
 やめた女はやめて2か月たったあとで、あなたを家に招いて話す。
「ちょっと親密すぎてこわくなっちゃったんだよね」
 あなたはセンスの良い調度品にかこまれて、やめた女がふるまってくれた手作りの鶏出汁のスープをすする。
「何を言っても、誰かがわかる、って言ってくれるでしょ。一体感がすごいでしょ。私ちょっとそれがきつくて。何より私自身もわかるわかる、って思っちゃうのがきつくて。私だけの苦しみを、なんだかみんなものとして扱わなきゃいけないような感じが……」
 そこまで言って、話しすぎたと思ったのか、女は付け加えた。
「私が、自意識過剰なんだと思うけど」

 2013年夏、あなたは進路のことで母親と喧嘩する。京都までなら許すけどね。東京までいく子なんてこの辺におらんよ。あなたの母親は言った。でもあの娘も行くよ。あなたは、同級生の女の名前をあげた。あなたと同級生の女は偶然同じ進学塾に通っていた。特別に親しいわけではなかったが、部活も同じだったので、一緒に塾に行くことがよくあった。塾までは電車で行った。同級生の女は山の向こうに住んでおり、毎日の通学に1時間以上かかるのだと言った。
「埼玉に叔母さんがおるけえ、そこに住まわしてもらうと思う。でもすごい嫌」
 と女は言った。
「東京の大学行けるだけいい。私は行けるかわからん」
 あなたはつい、同級生の女を責める。気分を害したかと思ったが、同級生の女は、あっさりと、それもそうか、ごめんとあやまった。同級生の女は、通学鞄のポケットから何かをとりだした。
「ハイチュウあげるわ」
 あなたと同級生の女は並んで銀紙をむいて、だまってハイチュウを舐めた。生ぬるい林檎味だった。

 2019年冬、蔦のからまるカフェが老朽化のため閉鎖する。これを機にオープンな勉強会にするのはどうでしょうか、と新たに入ったメンバーが提案する。せっかくだから、会議室とかもかりて。私新宿区民だから、安く借りれるところあります。あなたには自信がない。これまで友達や、友達の友達とだけやってきたこの小さな灯のような集まりの存在を、世界に晒して守れる自信がない。けれどあなたは言い出せず、勉強会のテーマと日時がSNS上に公開されるようになる。場所は毎回参加者のみに教えるということになり、それだけでもほっとした。
 魔女の会のメンバーは1人また1人と増えた。女しかいない空間であることが、女たちを安心させ、より喋らせた。もうあなたひとりでは会をコントロールできないけれど、そもそも誰もコントロールが必要だとは思っていなかった。あなたは1人でからまわりがちになった。議論がただのお喋りになっていると感じた時は、本題に戻そうとしたけれど、特にそれは望まれていない行為のようだった。あなたはあなた以外のメンバーの入っているLINEのグループがあることも、メンバー達の雑談で知った。時々みんなでカレーバイキングに行ったり、ストリップを観に行ったりしているようだった。やがて、そちらの課外活動のほうがメインになったのか、議題を募集しても誰も応えず、集まりよりもその後のファミレスの方を楽しみにしているような空気を感じた。
 あなたは悩み、ひとりで決断する。もうみんな、この会に頼らなくても、それぞれに集まったりとか、できるようだから。ヴァージニア・ウルフの読書会のあとで、あなたはその日集まった12人に、最後の頼みのように語りかける。だから私が発起人で、こういう形で集まるのは最後にしようと思う。誰からも反対意見はでない。
「このあとパフェ食べにいくの?」
 会が終わり、皆が帰ろうとしている中で、あなたは同級生の女に話かける。参加者全員に宛てられたメールの欠席連絡に、「勉強会はいけないけどパフェ会には合流できそうです」、と迂闊にも書き添えたメンバーがいたのだ。もっとももうあなたに隠す必要もないと思っているのかもしれない。
「え? 私パフェ好きじゃないから行かない」
 同級生の女は当然のように言って、ジャンパーを羽織り、じゃあ、お先にと会議室を出て行ってしまう。

 2019年、同級生の女は出版社に就職する。出版不況の現在でも人気を博す大手企業だ。同級生の女は、あなたが同じ会社を受けて、2次面接で落ちたことを知っているが、知っていることをわざわざ言ったりはしない。2次面接を待つ会場には50名程度の学生が座っていた。応募書類審査で5000名が1500名に、筆記試験で700人に、そこから1次面接をパスしてきた約300人のうちの一部だ。まるで大病院の診察待ちのように、順々に呼ばれて「1」から「6」の番号がふられた部屋に吸い込まれていく。同級生の女は、後ろの方の席で順番を待ちながら、最前列に座ったあなたの、低い位置でむすばれたポニーテール、そして清潔な、潔癖と言ってもいいかもしれないくらいのうなじをみつめている。あなたはそれを知らない。
 1か月後、同級生の女は内々定者の集まりに出席し、そこにあなたがいないことを確認する。懇親会で隣に座った「先輩社員」が、君はちゃんと能力採用っぽいな~、と言う。前よりは減ったけど、大御所の作家さんの隣に座らせるための女性も、うちは毎年ちゃんと採ってるんだよね。もうこんな不景気だから、そういうこと出来る会社も、少なくなったけど、すごい大事なことなんだけどね。
 ちょっとそういうこと言うのやめてよ、と向かいの席の、別の先輩社員が割って入りながら、空いたグラスにワインを注いでくれる。
「〇〇さんはでも、女子校とかでモテそうだね~」
「あ、そうですね、それ系です」
 同級生の女は答える。とりなしているようでいて、結局この先輩社員も、同級生の女の見た目の女性らしくなさに何がしかのコメントをせざるを得ないのだ。
「あ~、やっぱり。王子オーラがあるもんね。元運動部?」
「いや、違うんですよ。演劇部」
「うわーっ、モロじゃん」
 そこからは、宝塚は実は観たことがないとか、バレンタインデーには教室の入り口に後輩が順番待ちの列をつくったとか、自分の中で予め用意されている小話を順番に話すだけで、相手を安心させることができた。とはいえ「女子校の王子」が卒業してもそのままでいる例を女は自分の他に知らないから、今後このキャラクターで何年押し通せるのかは分からないな、とも思った。
 自分でも、誰に操をたてているのかと思う。自分は本物の男の代わりにされているという意識は、女子校在学中から常にあった。本当はもうその役目から、とっくに降りるべき時期なのだ。でも、女はしがみついていた。多分、これは自分自身のエゴなのだと気が付いてもいたが、女は身の周りの女たちのことが好きで、そして女ならざるものとして、女たちを庇護したいという気持ちがあった。
「やっぱ女子校って、女子同士でくっついたりとかもあるのかね」
「さあ、他は知らないですけど、私はなかったですよ。結局、本当に男なわけじゃないってことは、皆分かってるんで……」
 王子をやめたら、と女は思う。王子をやめたら他に何になればいいだろう。
「元王子でも、お酌のタイミングとかは今後覚えていってね、今はいいけどうるさい著者とかもいるから」
 先輩社員にそう言われ、同級生の女は、ここにあなたがいなくてよかったかもしれないと思う。いつかの飲み会で、うつむいて、箸袋を見つめていたあなたのことを思い出す。あなたは、それを知らない。

 2020年初春、あなたは実家で正月を過ごす。30歳までに、と夕食を食べながら母親は言う。30歳までに転職するか、結婚をしないんだったら、広島に戻ってくるってことでいいんよね? いいんよね、ってなんで勝手に決まってんの、とあなたは言う。だって今やってるウェブサービス? とかって、別に興味あるわけじゃないんでしょ。だったら実家に住んだら、お金も貯まるのに……ほら〇〇ちゃん? 大学一緒だった、あの娘みたいに出版社とかだったら。まあ、東京おる意味もあるって、お母さんも思うけど……。意味があるとかないとかお母さんが決めないでよ。てゆうか私こっち戻るとか、もう考えられんし。東京の方が、考えのあう友達いっぱいおるし……。
 その日の夜、あなたは実家の、いつまでも片付けられない、あなたが小学生の時からつかっていたベッドの中で泣く。あなたは「魔女の会」を、自分のユートピア(だと思っていた)を、自分から手放してしまったことを悲しむ。これが単純な物語だったらどれほど楽だろうか。例えば……なんと仲間内に紛れ込んだ、1人の悩める女性によって、魔女たちは滅ぼされたのだ。あなたは猛然と抵抗したが無意味だった。誰も、同級生の女でさえも、あなたを助けてはくれなかった……。ちがう、誰かに滅ぼされたわけじゃない。あなたは布団を出て、カフェインレスの紅茶を飲む。落ち着かなければ。あなたは自分に言い聞かせる。飛躍してるし、呪いも分散しちゃってる。抗うべきものに対して、「私たち」は小さすぎるのに、私が女たちを憎んでいる場合ではない。憎んでいる? あなたは首を傾げる。憎んでなんていない。でもどうしてだろう、女たちが、自分の思う通りにならないことに腹が立つ。
 あなたには奮い立つための、新しい拠り所が必要だ。その日あなたはネットで、性暴力に抗議するためのデモの存在を知る。運営スタッフが募集されているが、ひとつの会の運営に敗北したあなたにその勇気はない。
 あなたは一般参加者としてそのデモに参加するべく、手帳に日時を忘れないように記す。デモに間に合うように、帰りの新幹線のチケットを手配する。

 2017年末、ゼミの飲み会で終電を無くしたあなたは、はじめて同級生の女の家に行く。ゼミの教授に方向が同じだから、自分と同じタクシーに乗るようにと促されたのだが、このへんに住んでる友達の家に行くのでと、噓をついて断った。迷いながらも同級生の女に連絡をすると、女は迎えに来てくれた。
 あなたと女はコンビニに寄ってから、長い坂を上り女の家に帰る。木造の1K、20平米程の狭い部屋に、ベッドと机と沢山の本がある。女は下宿していた叔母の家を出て、自分で家賃を払っているという。女は言う。
「バイト入れまくってて大変だけど、上京したのに埼玉から通学って、長距離通学の呪いかって感じだしね」
 客人だから、とあなたはベッドを譲られる。あなたはベッドの中から、机に向かってレポートか何かを、書いている女を見つめながら、眠ってしまう。めずらしく深く眠って、明け方に目をさますと、ベランダ際の床に座った女が、横着にベランダ側に顔と手だけだして、煙草を吸っている。あなたはもう1度眠る。あなたを誘った教授は、その後セクハラとアカハラを告発されて大学を辞める。

 2020年春、あなたは、性暴力に抗うためのデモに参加する。約200名の参加者の前で、あらかじめ依頼をされたゲストスピーカーが何名か喋る。ゲストスピーカーたちはいずれも、何かしらの経験に裏打ちされた主張をもっており、あなたは強い憧れを感じる。あなたには今のところ、呪うための動機しかない、ように感じられる。全てのゲストスピーカーが話し終わった後、参加者に対し、前にでて話したい方はいらっしゃいませんか、運営スタッフからの問いかけがある。あなたは手をあげる。あなたはあなたの憧れと並んで立ちたい。マイクを渡される前に、スタッフに撮影の可否を尋ねられる。あなたは迷う。あなたはあなたの笑顔の写真をアイコンとしたアカウントに、ぶら下がる罵倒を想像する。あなたは撮影不可で、と小さく答える。マイクを渡されると、あなたは何を話していいのかわからない。これまでの自分が、何か不当な扱いを受けるたびに、それがなぜ不当か丁寧に説明しようとするたび、感じた疲れが思い出される。眼の前にいる観衆が、あなたの味方であるとは限らない。また一方で、これまで自分の受けてきた苦しみは、いかにも規模が小さいようにも感じられる、みんな、「最もひどい目にあった」者が発言することを望んでいるのではないか? その時会場には雨が降り始める。あなたがパーカーのフードをかぶろうとしたとき、左側から、ピシャリと鋭い音がする。あなたにはなにが起こったのか分からない。「撮影禁止ですよ」と、あなたの背後に控えていたスタッフが、左側の男にきっぱりと言い渡す。男がスマートフォンを仕舞う。手際の良い運営スタッフが、感じ良く、しかし有無を言わさず、男をあなたから遠ざける。

 2013年、あなたと同級生の女は、地方の私立の女子高等学校の演劇部に所属している。あなたたちが男性の登場する台本を上演する際は、誰かが男性を演じなければならない。そしてその中でも、一番台詞の多い役を、大抵は同級生の女が演じる。女は背が高く、指導も穏やかなので、後輩たちに人気がある。あなたは演技が上手く、見た目も良いとされているので、女の登場人物の中で最も重要な役を演じる。そして実をいうとその役割に飽きはじめている。あなたが魔女に憧れを抱いたのはこの頃だ。あらゆるフィクションと伝承とがあなたに伝えている、魔女はめでたしめでたしの抑圧から逃れ、秩序を乱すことのできる女だ。あなたは魔女になりたい。あなたは、演劇部の予算で写真スタジオから安く購入したドレスには、もはや興味がもてない。
 それは学園祭のリハーサル直前におこる。あなたは部員たちに、舞台用のメイクの指導をする。あなたたちは、普段許されていないメイクアップに少しはしゃぎすぎている。顧問教諭が度々注意をする。顧問教諭はかつて東京の大学で演劇を学んだらしいが、指導らしいことは何もせず、いつも隅にじっと座っている初老の男だ。部員たちは顧問教諭を馬鹿にしている。馬鹿にしているので、彼が馬鹿にされていることについてどう感じているかに、注意をはらうことができない。顧問教諭は何度も何度も注意をする。あなたたちは笑うことをやめない。ついに教諭は立ち上がり、あなたの腕を掴む。あなたは驚く。その時にはじめて教諭が力を持った人間であり、あなたに触れることが出来る存在だということを思いだす。「先生!」と背後から、教諭を咎める声がする。あなたと教諭が振り返ると、同級生の女が立っている。女は部員たちの輪から少し離れて立っている。女の登場に勇気づけられて、部員たちのうちの誰かが、教諭に非難の声を投げつける。でもあなたは、腕を掴まれて、怯えて、何も言うことができない。「離してください」あなたのかわりに、女がきっぱりと言い渡す。賛同の声が部員たちからあがる。男役を演じるためにシークレットシューズを履いた同級生の女は、顧問教諭よりも背が高い。顧問教諭はあなたの腕を離す。それでもあなたは声をだすことが出来ない。マジほんとありえない、と誰かがなおも声をあげる。その瞬間、顧問教諭が、同級生の女を殴る。
 女の大きな身体が、木が折れるように床に倒れる。この小さな男にも力があるということを、部員たちは知る。それでも女はすぐに立ち上がる。顧問教諭はわざわざ言う、「お前じゃなきゃ殴ってない」。そして出ていく。誰かが泣き出す。あなたも泣き出す。女は泣かなかった。女は泣かずに雨に耐える木のように、黙って立ったままでいた。あなたは明日から、女にどのように話しかけていいのか分からない。あなたは顧問教諭が呪われるように祈る。顧問教諭は懲戒解雇される。あなたはこのことを、出来るだけはやく忘れるようにつとめる。

 2020年春、雨足の強くなる中、あなたはマイクをもって立ち尽くしている。けれど先ほどのカメラに撃たれたように、話しはじめることができない。あなたはこれまであなたが馬鹿にしてきた人間とあなたがどう違うのかわからない。その時「大丈夫だよ」と背後から声がする。あなたは振り返る。身体の大きな同級生の女が、あなたに傘を差しかけている。スタッフの腕章をつけた女が、あなたの名前をよびかける。そして言う、「大丈夫だよ、喋って」。あなたは女の顔を見る。あなたとはまた違う苦しみを、受けてきたであろう女のことを思いやる。あなたは話しださなければいけない。「私たちは」と言いかけて、その主語をつかうことを躊躇する。「私は」とあなたは言う、その時ほとんどはじめて、あなたは旗を掲げず、何かを代表せず、それでも言葉を発する勇気を持つ。あなたには力があり、あなたはあなたの力を、呪いのために使いたくないと思っている。あなたは何度でもよみがえる。あなたは、話しだす。


『フェアな関係』
地元と東京、仕事とジェンダー、恋愛、セックス、結婚。この社会にいる女性たちの自我を描く兼桝綾、第一小説集。

著 兼桝綾
2022年11月24日初版発行
装丁 小川恵子(瀬戸内デザイン) 装画 増村十七
四六判ハードカバー・152ページ
ISBN978-4-907053-58-1 定価 本体1700円+税


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