見出し画像

耳かきをめぐる冒険 第四話 イクラの軍艦耳かきと中原中也の詩の世界

みなさんこんにちは。タバブックススタッフの椋本です。
この連載では、僕の耳かきコレクションを足がかりに記憶と想像をめぐる冒険譚をお届けします。
さて、今日はどんな耳かきに出会えるのでしょうか?
ーー

イクラの軍艦耳かき

イクラの軍艦耳かき
かき心地 ★★★★☆
入手場所 札幌狸小路商店街

北海道は札幌の狸小路商店街で購入したイクラの軍艦耳かき。写実性を重視した見た目のインパクトはさることながら、耳が掻きやすい点が◎。耳かき本来の「機能性」とパッと目を引く「デザイン性」の絶妙なバランスに思わず拍手を送りたくなる一本です。

ところで、イクラと聞いて思い出すのが詩人の中原中也です。中也はお酒と人が大好き。知人を誘ってはしょっちゅう飲み歩いていたそうで、年下の太宰治に絡み酒をしたり、酔っ払ってイクラを箸でつまみながら「ごめんヨォ」と泣いていたという逸話が残されています。死後に呑んべえエピソードが暴露されるなんて思ってもなかったでしょうね(笑)

大学生の頃、神保町の古本屋でたまたま中也の詩集を手に取ってからというもの、僕はずっと中也と一緒にお酒を飲みたいと妄想しています。だけどそれはもちろん不可能だから、彼が書き残した詩と言葉を肴に一人でお酒を飲んだりしてる。わずか30歳で亡くなった中也は、26歳の時に処女詩集『山羊の歌』を刊行、その後の3年間で『在りし日の歌』の詩群を書き残しました。20代の自分とちょうど重なる年齢ということもあり、彼の詩を読んでいると「自分と同い歳の中也」とおしゃべりしているような感覚になるのが面白いです。

そんな中也の詩は言い回しが独特で、一見意味が掴みづらい。だから「汚れちまったかなしみに…」に代表されるように、切り取られたいくつかのフレーズが濫用される傾向にあります。しかしこの「捉えづらさ」にこそ中也のエッセンスが潜んでいるように思えるのです。
中也は『芸術論覚え書』の中でこんなことを記しています。

”「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられていればよい。”

中也の詩作にとってまず重要だったのは、言葉以前の感覚でした。そしてその感覚に形を与える時、手アカまみれの言葉を使うのではなく、むしろその瞬間に生まれ来る言葉で表現し直す=名辞を作り直すということに潔癖なまでにこだわった。それが彼の詩の独特な言い回しにつながっているというわけです。言葉を仕事にする自分もなんだか背筋が正されるような気がします。

私たちが中也の詩に導かれるのは「名辞以前」の世界です。中也の言葉を借りるならば、それは「生活世界」から「芸術世界」への誘いであり、その二つの世界に橋を渡すのが中也の詩の言葉なんだろうと。だから中也の詩は表面を撫でるだけでは本当に感じることはできなくて、むしろ書かれている言葉を入り口にしてその奥へと向かおうとする「読み方」を通してこそ彼の心情に触れることができるように思います。私たちが中也と出会う場所、それは我々が日々の生活で忘れかけている「芸術世界」に他なりません。

さいごに、毎年この季節になると必ず読み返すお気に入りの詩を引用して終わろうと思います。
9年前に神保町で中也の詩集を手に取ってページをめくりながら、最初に目が止まった一編です。
この詩のすごいところは、三連目の「ことだけれども」という一言。言葉のリズムも独特なので、ぜひ声に出して読んでみてください。


春宵感懐

雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息が、
 なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、掴めない。
 誰にも、それは、語れない。

誰にも、それは、語れない
 ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
 けれども、それは、示かせない……

かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合せれば
につこり笑ふといふほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねえ

雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。


もしも中也が今の時代に生きていたら、どんな言葉で表現するんだろう。
みなさんもぜひ詩集を手に取ってみてくださいね!

(椋本湧也)

*今回登場した作品*


いいなと思ったら応援しよう!

タバブックス
お読みいただきありがとうございます。サポートいただけましたら、記事制作やライターさんへのお礼に使わせていただきます!