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世界シフト説のすすめー記憶違いの多いうっかり屋さんのご同類へー

 この頃世界シフト仮説というのを知り合いに布教している。
例えば、どう考えても閉めたはずの鍵が空きっぱなしになってたり、繰り返し探したはずの場所から失せ物が出てくることは誰だってあるだろう。私は腐るほど沢山ある。
 あるいは明らかにやったはずのことがなされていなくて、他人にもそれやってなかったでしょと否認されるあれだ。
これらは安易に記憶違いや勘違いとして、違和感を持ちつつも渋々周囲の状況に合わせて納得せざるを得ない現象としてよくあることだ。
この記憶違い問題に現れているのは、いわゆる表象誤りの可能性の問題であり、さらに言えば、世界の実在論的一元性に表象が反駁される問題とも言えるだろう。
つまりここでは客観世界、あるいは少し緩めて間主観世界と個人の認識が乖離した時、間違いだとされるのは個人の認識の方なのだ。
一見これは当たり前のことであり、日常的にも私たちは不承不承ながら自分の間違いを認めて周囲の状況との折り合いを付けていることが多い。
だがそれが本当に唯一の選択肢なのか?もっとSF的に、あるいは哲学的に考える余地があるのではないだろうか?
SFでよく使われるガジェットにパラレルワールドや量子力学の多世界解釈があるし、哲学でもルイスの可能主義的な可能世界論がある。多世界解釈や可能主義的な可能世界論(可能世界を現実世界と同じ種類の実在と考える説)は、大抵は傍流的で様々な擁護はあるものの、大抵はあまりに安易に実在を増やしすぎるし、そのような理論的コストは不要なのではないか?とオッカムの剃刀に八つ裂きにされることが多い。
しかし、これらの多元主義的な概念装置に意識のみのシフト(タイムリープものでよくあるあれである、時をかける少女とかシュタインズ・ゲート等参照)を仮説として追加するなら、私たちが記憶違いをしとき、その記憶通りだった世界から、記憶と少し違う近傍世界にシフトだけと考えることが出来る。
つまり世界シフト説を採用すれば、記憶や表象に関して誰もが間違いを起こすことは原理的になくなり、誰もが記憶の正しさを信じられるようになるのだ。
もちろん自分が今いる世界にうっかりシフトしてしまった以上、結局は郷に入りては郷に従えというわけで、その世界の状況に順応するしかないのは変わらない。
けれども皆が世界シフト説を受け入れた世界では、記憶違いによるすっぽかしや遅刻、出したはずの書類の出し忘れや、やったはずの業務のやり忘れも、世界シフトの致し方ない災難として、同情深く扱われるのではないだろうか。少なくとも記憶違いによる失敗をギスギストゲトゲと責めるこの世界よりはよりよい世界だろう。
私は早く皆が世界シフト説を受け入れるか、あるいは受け入れ済みの世界にシフトすることを願ってやまない。全ての記憶は全き正義なのだから。

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