(´ー`)♪ 人生を変えた言葉
こんにちは!!
小さな挑戦者「金子峻大」です!
前回の投稿読んでいただきましてありがとうございます。コメントも嬉しいです( *´艸`)
ここで高校編について軽く。
まず*國學院栃木*には併願で進学してます。地元の公立高校へ行きたかったのですが、勉強不足で不合格に。しかも、高校でサッカーをやるのかラグビーをやるのかも直前まで迷ってました。
そんな中、両親に「一番長くやってきたラグビーここでやめちゃってもいいの?」と言われ、同スクールの友達も行くと言っていたので後押しもあり國學院栃木高校への進学を決めました。
ぶっちゃけますと、この選択1つで人生が大きく変わったと思います。
※以後「國栃」と表記します。
※OB戦での1コマ、今でも國栃関係の人とはよく会います
では本題に入っていきましょう!!!
以下のような流れになります。(見やすさ重視で今回は書きます)
大きく分けてこういった流れで話していこうと思います。
3年間をここに詰め込むのは骨が折れました。
❖1年生、練習についていけなくやめたくなる毎日
前回の投稿を見て頂けた方は重複してしまいますが、昔から肺器官が弱いという体質でした。そのため、走り込みなどのメニューは1年生のころ全くついていけず、10本とダッシュが決まっていても最後までやりきることができませんでした。
共感していただける方がいると嬉しいのですが、長距離を走ると横っ腹がすぐ痛くなってしまってました。持久力改善などすぐにできるものでもなく、ほぼ毎日やり切れない自分に嫌気がさし、何度も「ラグビー以前にスポーツ自体向いていないのではないか?」と思う日々が続きました。
とどめを刺すかのように、同級生が次々とAチームに食い込んでいく中、同ポジション同級生の*石井健太君*もがAチームに定着していました。
※以降「健太君」と呼びます
これはもう3年生になっても、よくてリザーブ入りだなと確信に変わっていきました。
※左から1年生の時の大木、田村、金子
❖パスが俺の生きる道だと決意
そんな1年生で運よく、花園のメンバーにも入れて頂いたもののAチームでの試合出場はなし。健太君は、体力もあり身体も強く足も速い。こんな状況を変えたのは、古庄コーチの一言でした。
金子、パスは上手いな
小学生や中学生時代にも監督やコーチに言われたことのある一言でした。
しかし、その時は正直同じポジションがいない状況だったので、比較する選手がいないのもあり軽い言葉に感じていました。(部活動のサッカーにハマっていたのもあります…。)
高校の競わなければいけない状況での、この言葉は私に大きく影響を与えてくれました。実際、健太君に主観ではパスすらも劣っていると感じていましたが、高校入って褒めて貰ったことがなかったため舞い上がりました!
パスなら勝てる
パスなら自信もってやれる
パスでは負けたくない
パスを中心としたラグビー人生の始まりです。
練習からパス練習の時は、気持ちを前向きに取り組むことが出来ました。
もちろん、ほかの部分では全く敵わない状況が続いています。
❖初めて経験するステージや感覚**
コーチの言葉以来、パス以外でも勝たなければと練習に必死についていく毎日。2年生にあがると、3年生が7人しかいないという状況であったため、自動的に同級生や1年生がAチームに食い込んできます。
新二年生になる前の新人戦や練習試合までは、リザーブとしてAチームには関わっていました。ある練習試合の中、健太君の調子が悪く試合に出るチャンスが来ました。
ずっとBチームの試合に慣れていたので、念願のAチームメンバーに混ざって試合するとなったら緊張がMaxに到達。願っていたもののその場に立つとかなり空気が重く感じました。・・・健太君は花園でもやってたなんて凄すぎる。と改めて尊敬でした。
プレーはというと思ったより自分の強みを活かせた感じに。というのは、2年生の時のチームが小柄な選手が多く展開中心の戦術であったためです。
自分で持ち込んだりと何か流れを変えられる選手ではないので、中心選手や走りこんでくる選手にパスを投げることだけに集中するのはありがたかったです。またパスには自信があったため、ボールとパスするターゲットだけを見続け、ひたすら走るだけなのでストレスもありませんでした。
この練習試合からAチームで出場することが多くなりました。ラグビーって楽しいな、もっとチームの役に立ちたいという感情も初めて生まれました。
※関東大会初優勝の時の國學院久我山戦
❖國學院栃木としてさまざまな快挙を経験
2年生の関東大会や花園にも、Aチームとして出場することができましたが、いい結果が収められずあっという間に3年生に。
1年生や2年生の時から、Aチームで出場している選手が多かった学年でした。そのため、関東新人大会では昨年の花園王者である東の横綱「桐蔭学園」と決勝戦を戦う。敗戦で準優勝に終わるも「サニックスワールドユース」という国内強豪高校や世界の強豪高校が集まる大会にも出場することが出来ました。
全国選抜大会は、「東日本大震災」があった年でもあるため中止となってしまいましたが、関東大会では栃木県としても國學院栃木としても初となる、優勝をすることが出来ました。
花園でも初のAシードという大きな資格も与えてもらえました。すべてが初で正直感覚がマヒしてました。このまま全国大会でも優勝できる!有終の美を飾ることができる!と。
※花園予選の県大会で優勝時
しかし、世の中とは広いものですね。花園では、初のベスト8まで行ったものの当時の準優勝校である「東海大仰星高校」に負けてしまいました。
たくさんの経験をさせてもらえた國學院栃木には、今でも感謝しきれませんし忘れもしません。
この前、同期でトップリーグのサントリーサンゴリアスでも活躍している「田村煕」とも話したのですが、チームが本当に1つになっていたしずっと誇れる過去であるなと。詳しく話すと本当に長くなるので割愛しますが、部員数も今の國栃の100人越えと比べると半分以下になります。しかし選手層は厚くポジション争いも激しかったです。ミーティングの数も…という感じです。
※ちなみに彼が僕のパスに輝きを与えてくれたスタンドオフです。なかなかSっ気のある司令塔だったのですが、それが今でも活きています。感謝。
※1枚目、菅平での集合写真。2枚目、花園ラスト試合後。
❖高校日本代表での経験
この3年間でたくさんの経験を積むことができました。監督やコーチ、部員に何度も助けてもらい、高校日本代表の選考合宿に参加することになりました。
母校でやってきたことをやれば大丈夫と思っていましたが、想像していたことよりも現実は酷いものでした。
というのは、Aチームに定着してから自分で考えてラグビーをすることがほとんどなく、中心選手にパスを素早く正確に供給することで成り立っていたスタイル。そのため、周りに頼らなければ何もできない選手になっていたのです。これはゲームメイクをするポジションには致命的。
それを選考合宿で思い知らされました。
こりゃダメだなと思っていましたが、素早い展開力をする日本代表を目指すということで、ギリギリ選んでいただけました。理由がどうであれ、貢献しなければ他の選手に示しがつかない。必死でラグビーしました。
すべての試合に出場することはできませんでしたが、イタリア・フランスと戦うことが出来たのは今でも貴重な経験です。そこでも、頭を使うラグビーをしていかないといけないんだなと、改めて思い知らされました。
※トップリーグや日本代表で活躍している選手ばかり
もっと話したい!伝えたい!
でも長く書きすぎても、読むのに労力使っちゃいますよねー。
これでも深くお伝えしましたが、さらに!という方はSNSなどで聞いてくださったら、いくらでもお伝えします!!
最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。
今後も読んでいただけると嬉しいです(#^^#)
では!!
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