2014.1.25
昨日聞きにいった大学合唱団を、僕は10年前の演奏会の直後に辞めた。
今更恨み節を綴るのは行儀が良くないし、そもそも100%被害者じゃないし、美談にするのは当時の関係者も自分としても気持ちの良いものではないから、そういうつもりも毛頭ない。
ただただ、自分は10年前にあの場に立っていて、そしてその直後に辞めることを決意してステージに立っていた、ことを思い出していた。
当時運営学年である大学3年生の代の人数が多くなく、2年生、4年生も技術・運営にかなり関わらなければ回らない団の情勢もあり、当時19歳だった僕はベースのパートリーダーと副指揮を兼任して、20歳だった正指揮者の先輩は、テノールのパートリーダーを兼任していた。
当時の団長はソプラノパートリーダーを兼任していたし、アルトのパートリーダーも2年生だった。彼女は運営の仕事を抱えすぎてもはや何係か分からないほどだった。
あまりにも少ないアクティブ団員の中、僕らは疲弊しきっていた。
そんな情勢のなか、歴史ある団体は50回記念演奏会を迎える。
「今まで通り」の団運営も満足にできていない中、記念演奏会、しかも50回という節目、といったイレギュラーの対応をしなければならないという情勢にあった僕たちは、一枚岩になれなかった。
僕はとにかく先輩とうまくいかなかった。
人の少なさを理由に路線転換、団運営のコンパクト化、省エネ志向を掲げるがあまり、伝統を重んじる姿勢を小馬鹿にするような態度を取り続けたことが要因だったと推察される。
その姿勢は、先輩方の今までを否定する所作に他ならなかったからだ。
けれど、従来の運営体制を維持するために兼任に兼任を重ねなければならない状態は明らかに常軌を逸していた。後輩にもこんなことをさせたくないから、古い人たちがどんな事を言おうとも、自分のやり方でやる、作り変える、という姿勢を貫き続けた。
記念演奏会の最後の練習が県民文化センターで行われた日、「僕以外の」運営メンバーと4年生でミーティングが行われた。
結果、以降は僕抜きで運営の話し合いが行われるようになった。
このままでは記念演奏会の開催が危ぶまれるということで、4年生と一部の2、3年生によって実権を完全に握られてしまったのだ。
今思えば合理的な判断だったと思うし、あそこで既存の2年生中心の運営体制のまま走っていたら確実に演奏会は破綻していただろう。
50回演奏会を無事成功させる、という点においては、あれ以外に選択肢は無かった。
僕はその場にいなかったからどのような話し合いがなされたのかは分からないけれど、今はもうないフタバ図書で、立ち読みをしながら少し泣いた。
演奏会終わったら辞めよう。
と、僕とアルトパートリーダーと、当時の団長と話しながら、帰路についた。
昨日は60回記念演奏会だった。
あれから10年経って、当時の記憶もかなり薄れていたのだけれど、記念演奏会で取り上げる曲集に当時の情景や感情が紐づいていて、
OBOG合同ステージを聞いていたら、この団体に対する愛着とか、虚無感とか、執着心とか、それら全部をひっくるめた強烈な郷愁で当時の記憶が鮮明に思い出されてしまって、なんとも言えない気持ちになった。
…という話を、当時の正指揮の先輩と、演奏会の後に飲みながら話して、僕はなんとなく気持ちを清算できた気になりました。
おわり。