答には興味がない
正直なところ、問いを立てることができた時点で、それまで胸に満ちていた興味関心の9割はどこかへ消えてしまう。
答はいらないのだ。疑問に気づき、不思議を見つけ、まだ明らかにされていない課題のありかを発見したとき、もうそれで満足なのである。そのような自分の性格に、最近、自覚的になってきた。
歳をとり、長く生きていくにつれ、「不思議」は油断すれば刻一刻と減っていく。検索すればたいていのことはわかるし、誰もがそこら中で自分の考えや意見を世に投じているこの頃、「不思議」に出会うことは日常茶飯事ではない。
不思議なことを、不思議なままにしておくこと。それが心地いい。それは不思議や疑問や問いの存在を忘れてしまうということではない。胸に抱いたまま、そのままにしておくということである。もし誰かがその問いの答えを知りたい、答えを出したいというのであれば、「どうぞどうぞ」とその先の道を譲るに躊躇はしない。というか、問いの先にある道を進むことにはさして興味がないのだ。この先に道がある、ここに未踏の山がある、ここにはまだ削られていない原石がある……それがわかるだけで喜ばしい。でもその態度はなかなか許容されない。
なぜ、問いを立てることとその問いに答えを対応させることとが、こうも不可分に結びつけられているのだろう。与えられた問いに答えを出すことしかしない後者は、AIや機械との競争に挑まなければならないのかもしれない。では前者のみの場合はどうなのだろう。問いを出すが、解決はしない存在。おそらくは効率や生産性の観点から放逐されていきそうだ。
「これからの時代は問いを立てることが重要だ」。そのようなメッセージはこんにち多くのところで投じられている。そして、それらは暗黙裡に「そして、お前が解決しなさい」とも語っている。「文句があるなら代案を出せ」という言説が典型的である。文句を言うこと、疑問を呈すること、批判することだけではだめであり、なにかより良い答えや案をセットで提示することができないならば口を開いてはならないかのごとく。
この言説がまかり通っているうちは、まだ社会は成熟しているとはいいがたいように思う。「誰かが解決してくれ」とどこかで思ってしまっている点で無責任さはあるかもしれない。だがその場合、同じ無責任さが「代案を出せ」と言い放つ側にも該当する。ゆえに責任論はこの種の議論において的外れというべきだろう。共通の課題に直面しているとき、人びとのあいだで必要なのは責任感などではないのだ。
「一度疑問に思ったら解決するまで熱中してしまう」気質が研究者にはあると、よく言われる。でもぼくにはそれがよくわからない。研究において向き合う問いに、辿り着くべき1つの答えが用意されていることなどほとんどない。人や社会に対して向き合うとき、答えなど状況に応じて変わりうるし、普遍/不変なものでもありえない。
しかし論文では、問いに対応する答えを提示しなければならないことがほとんどである。論文とは基本的に、問いを示し、それに答えることを目的とする著作物だからだ。近年、といってもすでに40年以上の歩みを経ている傾向だが、一部の分野では「記述を開くこと」や、「固定化に抗う記述」が標榜されるようになっている。他者や社会について「○○は△△である」と現在形で記す場合に、それが過去から連綿と続く本質的な事柄であり、この先も不変であるかのごとく描くことに警鐘が鳴らされてきたということだ。自らが対象とし記述した事柄の時期やそのときの状況を細かく「厚く」描いたり、異なる解釈の余地を残したり、あるいは記述を更新し続けていったりすることによって、「答え」の固定化を回避しようとする努力といえる。
ようするに、「答え」はつねに暫定的であり、可謬的なものとして捉えられるべきものなのである。1+1=2は普遍/不変にも見えるが、どうやら1をどう定義するかによって答えはいかようにも変化するらしい。「事実」や「科学的知識」なるものの構築性や、それがつねに解釈や文脈と不可分ではありえないこともまた指摘されている。そうだとすれば、なぜ「答え」がいまだに必要とされるのだろう?
それはおそらく、「問いをたてて暫定的な回答をするという手続きによって、新たな問いが発見されるから」なのだ。問い、答えに辿り着いたと思いきやさらなる疑問が湧き出てくる。それが研究という営みのひとつの本質的な特徴と言ってよいかもしれない。求めているのは答えではなく問いなのだと。
論文を書くことは研究ではないという人がいる。部分的に賛同している。論文を書くことは大変なのだ。他方で論文は、他者が自分と同じ(あるいは近しい)山を登るときの道しるべになる。研究界なるもの全体への貢献があり、全体としての研究は前進するという意味では、論文を書くことと研究を進めることには大きな隔たりはない。
「論文を書くことで研究が進む」という観点もある。論文を書くために文献を整理し、思考を言語化し、他者にわかるように書いていくという作業をつうじて、インスピレーションや問いが生まれることがよくある。それは確かに「書かなければ気づかなかった問い」だ。この意味でも、論文を書くことと研究を進めること、あるいは何かを問うこととのあいだに断絶はない。そして、「問いを生むために暫定的な答えをだす」という先述のアプローチと重なり合っている。やはり大事なのは問いということだ。
不思議の道。問いの道。疑問の道。それは「答えに向かう一本道」ではない。ゴールが仮にあるとすれば、問いこそがそれなのである。問いに始まり答えに終わってはつまらない。
問いに始まり問いに終わる。あるいは、問いに始まり迷子になる。それがよいだろう。