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さよなら毒舌
毒舌という言葉は、徐々に死後になりつつあるように思う。
昔は「毒舌」という言葉でふんわりと包含されていたものが、実は単なるレイシズム、ジェンダー差別、ルッキズムの類のものだということが、世間に詳らかになったのだろう。
それはそれで良いことだと思う。というか、世の中が変わるというのは、そういうことでしかないと思う。
さて、毒舌から差別や暴力を取り除いていった結果、最後に残るのはなんだろうか?
「お前って約束破るし金返さないし酒癖も悪いし、ほんとにクズだよな」
これは、かなり純度の高い悪口のように思える。
いかなる人種、性別、宗教への攻撃も含まない。
ところがこの言葉を向けられた相手が、例えば配偶者や子供を亡くし、今まさに失意のどん底にある人だとする。
「お前って約束破るし金返さないし酒癖も悪いし、ほんとにクズだよな」
その時この言葉は、全く違う意味合いを持ってくる。絶望の中にあり、一般的な社交が全くできない精神状態なのかもしれない。そのためにお金を返すことも忘れて、アルコールに溺れてしまっているのかもしれない。
それでもこの言葉は差別や暴力でないと言えるだろうか。
マイケル・サンデルが言うように、能力主義は現代社会に残された最後の差別である。
能力というのは、学力や純粋な身体能力など、先天的・後天的に関わらず身につけた技能・知識のことと言ってよいだろう。
人種や宗教、性による差別に敏感な現代人でも、能力による格差が差別であると自覚することは少ない。能力があるということは、出自と同じくらい偶然の賜物にすぎないのに、である、
さらに言えば、ある時は高い能力を持っていた人が、何かのきっかけでその能力を失うこともある。
能力を持つ者と持たざる者の境界は、決して明確ではない。
相手がどのような背景を持つ人間かわからない以上は、繰り出す言葉全てが差別や暴力になる可能性を孕んでいる。
ここまですっかり理解してしまったわたしたちの世界に「毒舌」の居場所が無いのは、当然の帰結のように思える。
ところが、である。
人間は、啓蒙と教育によって差別を乗り越えることのできる生き物であると同時に、いつもどこかで人をバカにしたくなる生き物である。
また同時に、誰かがバカにされ傷つくの楽しみたいという欲求を持つ生き物である。
その証左にSNSには今も、あらゆる対立を背景にした罵詈雑言が投げつけられ、消費され、承認欲求を満たすために利用されている。
人は、人を傷つけ、傷つく人を見て楽しむことをやめられないのだろう。
SNSを中心に繰り広げられる不毛な罵詈雑言と誹謗中傷を、かつての「毒舌芸」のように楽しむのか、それを軽蔑して遠ざけるのか。
それこそが、現代の人間の感性を新旧に別つ分岐点になるように思えてならない。
今日の本(あんまりちゃんと読んでない)