幸せとの距離感
幸せになりたくない、という人はいないだろう。
斜にかまえて「じぶんには世間並みのふつうの幸せなんていらない」と強がる人でさえも、差別されたり殺されたりするような、理不尽な不幸せをみずから望むことはあるまい。
誰もがなんらかのかたちで、幸せを希求している。
幸せは歩いてこない、と、かつてだれかが歌った。
その言葉の半分は嘘だ。
生まれたときすでに、恵まれた境遇が約束されている人は存在する。
その境遇がその人の生涯全てを幸せにすることを保証しないとしても、その人の生涯の不幸せの芽は、あらかじめおおかた摘まれている。
そんな人にとっての幸せとは、あつかましくも勝手に向こうからやってきたものだ。
その一方に、この世界の大半がそうであるように、待てど暮らせど、いっこうに幸せがやってこない人がいる。その人にとって幸せは、みずからの手でつかみとらねばならないものだ。
幸せを手に入れようとするその過程で他人を不幸せにおとしいれることがあったとしても、その人が幸せに向かおうとすることを止める権利は誰にもない。
しかし悲劇的なことに、それだけの犠牲をはらいながら手にいれた幸せが、じつは不幸せだったということも往々にしてありうる。いや、手にいれたそのときには確かに幸せだったとしても、時を経てそれが不幸せにかわってしまうことすらありうる。
年収いくらなら幸せだとか、どこの学校や会社に入れたら幸せだとか、誰々と結ばれたら幸せだとかいうことは、幸せというものが目に見えたり手にとれるものだと思いたい人間がつくった、都合のいい幻想にすぎない。
おそらく、幸せとは、だれにとっても定義のできない、目に見えない、手にとれないものだ。そういうものをこそ、わたしたちは「幸せ」と呼んでいる。
じぶんの手がつかみとろうとする幸せが幻想であるならば、わたしたちにできるのは、みずからが幸せと思えるものに少しでも近づくことだけなのか。
そう思えばむしろ、幸せというやつとも、友人のように気軽につきあっていけそうではないだろうか。
カバー画像:
桂銀淑はもちろん素晴らしいが、この曲は誰が歌っても本当に良い。
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