音楽の楽しみ方
今年の4月頭に『Coda』を観に映画館に行った。
劇中多くの印象的なシーンがあったが、中でも私の中で強烈に印象に残ったシーンがある。以下ネタバレ的な内容を含むので、見たくない方は読まないようにしていただきたい。
そのシーンとは、発表会の最中に無音になるシーンである。耳が不自由である両親の追体験をするように、発表会の最中映画が突如無音となるのだ。
画面に映し出されるルビーらが歌う姿、オーディエンスの反応、そしてルビーの両親の表情の変化。これほどまでに人物の心情や心の動きを鮮やかに描いたシーンはこれまで観たことがなかったように感じた。
そして静まり返った劇場内で私の耳に微かに聞こえてくる、観客がすすり泣く声、シアターの壁がきしむような音。
この劇場内の空気感も相まって、私にとって忘れられない映画体験の一つとなった。
今年の10月から放送されたテレビドラマ『silent』では、中途失聴者の想が、歌詞カードを読みたいからという理由でタワレコに通ったりヒロインの紬からCDを借りるという描写があった。
音が聞こえなくなってから、歌詞を読んで音楽を楽しめるようになるまでに彼がどれだけの時間や葛藤を要したかは計り知れないが、それでも確実に彼は「音楽」を楽しんでいた。
これらのシーンを観て、私の頭にあるエピソードが浮かんだ。
それは『星野源のオールナイトニッポン』のある回における、星野源のドームツアーに関するリスナーからの感想メールだった。
その内容は、知り合いの紹介で星野源のことが好きになった、生まれつき耳の聞こえない夫婦が、星野源のドームツアーに参戦したときの感想を送ったものである。
音が聞こえなかったとしても、音の振動を感じたり、周囲の人たちの動きや表情を見ることで、その音楽によって生み出される時間や空間を楽しむことができたというのだ。その感受性の豊かさ(という安易な言葉で表現できるものなのかは分からないが)になのか、その「知り合い」の心遣いになのか、はたまた音楽の可能性の広さになのか分からないが、私は理由もわからずこの話に感動してしまった。
いま私は、たまたま耳が聞こえるために音楽を「聞いて」楽しんでいるが、それだけにとどまらない音楽の多様な楽しみ方があること、そしてそんな多様な楽しみ方を許容する音楽の懐の深さみたいなものに改めて気づかされた一年だったかもしれない。