noteはじめました
22歳、ニートの城です。今日は、自分語りします。
僕は1995年5月に生まれました。
生まれた日の新聞の一面は3月に起きた地下鉄サリン事件の経過でした。
1月には阪神淡路大震災。お腹の中で揺れたのを覚えています。
保育園児の頃からシャイで、ちゃんとした友達のいた記憶がないものの、 おやつの時間にテーブルの下に潜り込みスカートの中を覗く仲間がいたこと
保育園児で初恋をした相手は年下で、小鳥とおしゃべりできる子だったこと
忍者になりたくて、黒の着物におばあちゃんに作ってもらった顔隠しを被り刀を背に背負い近くのアピタを走り回ってたこと
を覚えている。記憶と記憶はどこか端が結びつけられているもので、今も思い出がスルスルと繋がって忘れていたものが出てきている。
思い出は思い出そうと思ってもきっかけがないと難しいと思う。 前に見た情熱大陸で歴史学者 磯田道史さんは、40歳になってカレーの福神漬けをカリッと噛んだときに小学校のときに食べていた福神漬けが作られていたのは島根県松江市浜佐田町814番地だったと思い出したと語っていた。極端に記憶力がある方だと分かるエピソードであると同時に、きっかけがあるから思い出すという例でもあると思う。
次、小学生時。今も付き合いがある友達が一番多いコミュニティ。
成績も良く学級委員や生徒会もやっていた。神童だった。コラショのおかげ
夏には毎年、いとこ二人とおじいちゃんおばあちゃんと奥三河の山奥にあるおじいちゃんのウェークエンドハウスに泊まりに行っていた。この記憶は保育園児時から小学校中学年くらいまでだと思う。秘密基地を作ったり、川で遊んだり、山を登り水源に行ったりしていた。水源には野生のワサビができるほど、澄んでいて、綺麗で、美味しかった。
帰りにいつも寄るラーメン屋があった。毎年の恒例だったので店の人とも仲が良かった。いつも頼むのが醤油ラーメン5つ。子供の僕らが初めて行ったときに美味しいとはしゃいでいたからおじいちゃんは嬉しくなって恒例になっていたのだと思う。当時、喜んでいたことは間違いない。高校生くらいのとき訪ねたことがある。美味しくなかった。
綺麗な記憶でいたい。
そんなこんなでお受験をして中学校に入学。
入学式の日、隣の席の子に恋をした。
三年間片想いをするのだが、この話はまた。
僕の中学は一人一テーマを持って研究をする中学だった。笑顔の効果であったり、数珠問題だったり。僕はロボットが好きだったので、ロボットについてを調べていた。夏休みに高専のロボットを研究している先生にアポとって会いに行ったり、修学旅行では秋葉原でロボットの部品を販売しているお店で話を聞いたり、つくばの学園都市にあるサイバーダイン社にアポをとって脳の電気信号で動く腕などを体験したりした。
研究内容がロボットだけに高校は機械工学を学びたいと思っていた。 しかし、偏差値が足りなかった。僕は、中学に入って落ちこぼれていた。
小学校の時は先頭を走っていたのに、優秀な中学に入って僕は勉強では敵わないと思ってしまっていた。それから成績はどんどん奮わなくなった。
本当は高専で機械工学を学びたかったが、偏差値が足りず、同じ高専の違う学科にある建築学科ならギリギリ足りそうだったので、そちらを受けることにした。建築にも昔から興味があった。もとより絵も数学も結婚できない男がも好きなど細かい要素で構成された理由だった。小学校のときの友達も誘って二人で受けに行った。
落ちた。
僕は落ちて、建築に興味のない友達が受かった。今ではその友達は組織設計事務所で設計をしているので向いていたようで良かったが。
地元の高校に行った。高専に受かった友達の行きたかった普通科の高校である。
ここでの思い出は特に少ないので割愛する。バスケ部で20kg痩せたぐらい。受験期で10kgリバウンドしたけど。
大学。滑り止めの大学に止まり、念願の建築を学ぶことになる。
いろいろな出会いがあった。
歳をとった。
若さがなくなってしまった。
僕は、建築を学び、建築の道のりは長いが進むことを決意し、
ニートになった。