不思議な記事「都の街中PCR、予兆つかめず コロナ「第5波」」

『都の街中PCR、予兆つかめず コロナ「第5波」』はつくづく不思議な記事だと思います。

画像1

予兆をつかめなかったのはか。オリンピックをするなら、開催の前から人流が増えることはわかりきっていて、次の波を警告していた人は数多くいます。この記事のタイトルでは、何が言いたかったのか。予兆がつかめなかったと主張したいのか。何をすべきと主張しているのか。こんなことを考えてみたいと思います。


東京都の繁華街でのモニタリング検査の目的は、予兆をつかむこと?
東京都が行ったモニタリング検査の目的は何だったのでしょうか?内閣府も「感染拡大の予兆の早期探知のためのモニタリング検査」を実施しようとしています。つまり目論見は、確かに予兆をつかむことだったのでしょう。しかしこの目的で行うモニタリング調査ならば、予兆をつかむほどに精度を高めたかったのだとしたら、対象範囲を決め、対象者を偏りなく、必要な精度が得られるだけの人数を検査することが必要でした。つまりどの教科書にでも書いてある統計調査の基本を押さえるべきでした。希望者だけを少人数検査しても、統計的に意味のある情報が得られるはずがありません。

予兆をつかむことが目的なら、別の良い手段はなかったのか?
普通、目的を達成することを目指すなら、できるだけ効率的にその目的を達成できる方法を探すでしょう。実際、例えば人流のデータを使い感染拡大の予想が行われます。デルタ株の頻度が上がることは感染拡大につながるとの指摘もありました。予兆をつかむことを目的とするなら、様々な指標を使って総合的に判断していたはずです。

以上と記事タイトルを比べると、本当に誰かがこのモニタリング検査の結果から、予兆をつかもうとしていたのか。なぜ予兆がつかめなかった、と主張したいのか。疑問が生じます。


続いて記事について考えます。言葉を拾っていくと、

「検査件数の少なさ」「感染の有無を確認するためだけに不特定多数の人が集まれば、検査地点ごとの傾向の正確性が揺らぎかねない」「4月下旬から5月上旬にかけて、1日当たり約1千人超の新規感染者が確認された第4波でも、陽性率にばらつきがあった。」

つまり「感染対策としての有効性に疑問」を主張していることがわかります。そして

「市民の協力が得られない状況」「感染の判明で生活に影響が出ることもあり、応じてもらうのが難しい。検査が根付く文化を作らなければならない」

と検査が進まない原因が市民側にあると指摘し、

「無症状者の検査は『自分を守り、他人にうつさない』という目的であれば理にかなうが、地域の流行の兆候をつかむためとなるとコストを踏まえれば現実的ではない」

最後はコストの問題に。

予兆がつかめないのだからコストをかけて行う必要はない、と結論したいのか、それとも検査を増やせと言っているのか?