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表記統一ノート④ルビについてと余談と余談の余談

表記統一ノート4回目です。とうに七草も鏡開きもすぎ、1月も下旬にさしかかっていますが、本年もよろしくお願いします。

これまでの記事
表記統一ノート①リストの見方と基本方針
表記統一ノート②複合動詞の運用
表記統一ノート③開くか閉じるか、どう決める?

前回の記事のあと、こんな反応をいただきました。

言われてみれば確かにルビも表記の一部。なので、今回はそのあたりの話ができればと思います。といっても、これまでの出版経験が2社からのみなので、知っている狭い範囲での話になります。

ちなみに、廃業回避は全くできてないです。ははっ。笑いが渇く。助けて。

ルビ全般に対する考え方

いきなり身も蓋もないですが、さほどのこだわりはないほうだと思います。自分の判断で振る場面というのは少なく、そのままでは明らかにややこしいな、というときに誤読を防ぐ目的で振るくらいです。ぱっと思いついたのは「一月」を「いちがつ」ではなく「ひとつき」と読んでほしいときなど。他はちょっとすぐには思いつかないくらい少ないです。

ゲラのやりとりをしていると、出版社の判断で難読漢字(基準は未確認)にルビが振られて返ってくる場合があります。そのときは、ほぼ100%そのまま受けいれています。作者によっては嫌がる人もいそうだなと思いますが、個人的には「わりとメジャーな漢字だと思うけどルビ振るんだね。いいけど」ぐらいの感じ。

一つの漢字に3文字以上のルビ

また、出版社の判断で振られるなかに、ときおり1文字の漢字に3文字以上のルビが振られる場合があります。「悉く」に「ことごとく」のように振られる場合ですね。このnoteの表示でもそうですが、これだけルビの文字数が多いと、ご覧のとおり本文の字間が離れてしまうという現象が起きます。

これも気にする人は気にするところで、じゃあ「ことごとく」については平仮名で表記しようと決めることで回避する事例はありえそうです。個人的には、それだけの理由で開くことにした例があったかどうかちょっと思いだせません。申し訳ない。「ことごとく」については最初から開いていたし、実際に字間が離れるルビを振られて戻ってきたことはありますが「まあいっか」で受けいれた記憶。

登場人物へのルビ

これについては初出時に振っています。しかし自分の意思やこだわりではなく、どうやら出版時にはそうするものらしい、というぼんやりした知識に基づいてそうしています。自分で振らなくてもゲラになると初出時に振られて戻ってくるし、何しろこだわりがないので、出版社の方針がそうならそれで大丈夫です、というスタンス。
読者が忘れているころを見計らって、というのも記憶にあるかぎり、振ったことはないと思います。少なくとも自分の判断ではしていないかと。

傍点について

ルビの一種でいいのかわかりませんが(ルビの語源がフォントサイズからなのを踏まえると含まれうる気はする)、傍点についても書き手によって扱い方に差が出る部分だと思います。「ちゅ」で変換すると出てくる「丶」ですね。たとえば3文字の言葉に傍点を振るとき、作者が毎度「ちゅちゅちゅ」と入力していると思うとちょっとかわいい。キスの魚人か?

傍点については、出版社側から提案されて振ったことはないと記憶しています。あくまで個人の経験上は、傍点はほぼ作者の意向で振られていると考えてよさそうです。が、編集者との関係性・連絡をとる頻度によっては、そうした細かな助言等もありえるのかもしれません。これまで書きおわったら送りつけるスタイルでやってきたので、そのような場面には遭遇しないため実態はわかりません。いずれにしても、助言があろうとなかろうと、ルビよりも裁量権は作者側に預けられている気はします。なかには絶対に使わないと決めている作者もいるだろうし、好んで多用する人もいるでしょう。

どんなときに振る?

ではどういうときに傍点を振っているか。厳密な基準を意識したことはなかったんですが、あらためて顧みると

  • ここであえてこの単語が使われていることの意味にフォーカスさせたい

  • 行間を読みとってほしい

  • 素通りされちゃうと読み味が淡泊になりかねない

みたいなときに強調の意味で振っているのかな、と思います。振る頻度はあまり高くないと思いますが、多分こんな感じ。ぶっちゃけ感性としか言いようがないです。他の方の話も聞いてみたいところではあります。

ある後悔について

ちなみに、傍点については個人的に今も後悔していることがあります。単行本では振っていたある箇所の傍点について、文庫化に際して「ここの傍点、なくてよくないですか?」という指摘(強制ではない)があり、そのときは「そうかあ」とうっかり従って削除したんですが、校了後、やっぱり消さないほうがよかったという確信が湧きあがってきて、しかしそのときにはすでに手遅れ、ということがありました。

このときの経験から、「ルビは環境整備。傍点は気軽にコントロール権を手放してはいけない表現領域」という認識が自分のなかに少なからずあることを発見しました。なのでそれ以降は手放さないようにしています。版を重ねる売れっ子であれば、のちに修正する機会もあるかもしれません。しかし多くの書き手は売れっ子ではないため、一度きりかもしれない機会に後悔のない選択をしていかなければいけません。肝に銘じておきたいものです。


余談:当事者性は文学的価値をブーストするか

早々にルビについて思いあたることがなくなってしまったので、最後に余談を置いておきます。ルビとは全然関係ない話ですが、西村賢太さんからの連想ということでご容赦ください。

個人的に近年ちょっと気になっているテーマに、「当事者性」は文学的価値をブーストするのか、というものがあります。西村さんもかなりパーソナリティと作品が結びついているイメージですが(違ってたら申し訳ない)、少し前の受賞作などで「当事者性」が話題になっているのを見ていて、ちょっと考えさせられるなあと思ったりする時間がありました。

当該受賞作の評価・価値に疑義を差しこむ意図は全くありません。なにしろ未読なのでその判断すらしようがない。というか、当事者性が文学的価値をブーストするならするで個人的には困らないし、そもそも文学のなんたるかもわかっていないので、是非の判断も何もないのが現状です。ただ、それでも一つだけ見ていて気になるのは、もし当事者性が文学的価値を底上げするのだとしたら、今後なんらかの当事者性を持つ作者が自身の属性を作品内で扱った際に、最大の評価を得たければ自身のその属性をまずカムアウトしたほうがいいよ、という要請(外形的ないし内製的な圧力)に晒されかねないのは望ましくないのではないか、という点です。

その点をふまえたとき、やはり文学的価値は記されたテキストによってのみ評価されることが望ましいのではないか、あまり周辺情報――特に当事者性にスポットを当てすぎるのも危なっかしくないか、という気がしてきますが、どうなんでしょうか。

ただ、文学的価値とは切り離したとしても、やっぱり話題性という意味においては、当事者性というのは大きな魅力になりうるとも思います。それでも話題性や商業的な利点とのトレードオフであればまだ、カムアウトする/しないは作者自身のコントロール下に置ける余地もありましょう。しかしそれが文学的価値とのトレードオフとなると、その作者が純粋に文学に身を捧げる覚悟であればあるほど、逃れようのない呪いとなって心を焼きつくしはしないか、とお節介な心配をしたくなります。文学の世界とはそういうものだ、覚悟して入ってこい、ということであれば……外野としては「あら~♡  豪胆~♡」ですみますが、志す人を遠ざけかねない在り方にまっすぐな期待を向けるのはやはり難しい気がします。

まあたぶん致命的に不勉強なだけで、きっとこの程度のことはとっくに議論が尽くされて一定の結論が出ているんだろうな、と思います。あくまで文学のことを何も知らない脳みそに浮かんだ雑感ですので、初夏の薫風に揺れる柳の境地でぬるりと読み流してください。

余談の余談

この記事を書いていたら、ちょうどAIを執筆に利用した小説が受賞したニュースがありました。やはり話題性があると盛りあがるようです。コンテキストというやつですね。一時期よく見かけましたが、そういえば最近とんと見かけなくなりましたねコンテキスト。の者はどこにいってしまったんだろう。


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