プライバシーとコミュニケーション
最近、近所に弁護士さんが住んでいることが分かりました。なぜわかったのかというと、表札の上に「弁護士」と書かれていたからです。
この表札という文化は欧米に無いらしい。そういえば過去一度だけイタリア旅行に行った時も表札は目につかなかったし、そもそもどこに人が住んでいるのかも良くわからなかったものです。
日本も近年では、プライバシーの観点からそもそもつけない人が増えているようです。荷物は直接ではなく置き配にしてもらえたり、自分の家ではなくコンビニや郵便局に届けてもらえたり、プライバシーに対する配慮が顕著です。知らない人が急に訪れることに苦手意識を持ったり、反対に知らない人にアプローチをしないといけない境遇である人にとってはありがたいことであったりします。(中には全く気にしない人もいて驚きます。別次元すぎます。)
しかし、表札がなければ人がいるという証明はどのように行うのでしょう?
書類上、もしくは”ここには人がいるよ”という生活臭をいかに出すかでしょうか?
洗濯物を干したり、ポストのチラシを回収したり、玄関に植木を置いたり、音楽を流したり、カレーを作ったり。あれ、ミニマリストの人達はどのように生活臭を出しているのだろう。Uberも「ここの家だよな?ここに家があるよな?」と不安になったりしないのだろうか。
自分の周囲にはどちらかというとコレクター気質の人が多いため、生活臭をプンプンさせています。しかしあまりにもモノが多すぎると、「ここは人間が生活できる空間?」と疑問を持たれてしまい、生活臭の度が過ぎるとエラーを起こしてしまうのではないかな?人間とモノによる空間比率のバランスが一定のラインを過ぎると違和感を覚えたりするのではないかな?
生活臭が感じない(そもそも生活していない)と言えば、木々や雑草が生い茂っているところですが、ちょっと空間が開けていたりすると不思議と人がいたのかな?と、人間の介入を感じる時があります。(動物達や妖精の仕業の可能性もあります。)
そんな時に、人の存在がわかると少し安心を感じるのはなんでしょう?反対に一度人が介入した空き地とか空きビルとかに漂う寂しさやちょっとした恐怖はなんでしょう?
孤独の方が向いていると思いつつも、社会的な繋がりやコミュニケーションを求めていたり、ここは危険では無いという狩猟時代から受け継がれてきた欲求を満たしているからだったりするのかもしれません。頭ではなく遺伝子レベルに影響があるとなると、わからないものです。
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