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喉に梅の種がいる話

自分から進んでタスクを抱えては限界突破して最後ガタがくるまでが私のお家芸である。

それに気づいた時、タスクを抱えないように所属団体を減らすか、限界突破してガタが来ないようほどほどに力を抜くかが選択肢としてある。
仕事も人間も合わない時はさっぱりと前者を選べるのだが、仕事の内容が好きであれば多少嫌われたり迷惑をかけたりしてもいいからと後者を選ぶことが多い。

今一つのことに集中するよりも、未熟で失敗のできるうちにできるだけ多くのことをしたい。どのメンバーもその立場は同じなので支え合っていけば内容は成立する。
学生の本分は学ぶことであるし、様々な授業をとって基礎的な理論を身につけながら、より自分の興味に近い実践的な部分を補えるものが学生活動であると解釈しているからだ。

実際それで大成功してそのまま社会に出る人もいるけれども、私はまだそこまで確信めいたものを持てるほどではないし、焦らずに研究することを第一に考えていてもいいだろうと思っている。
寿命も健康寿命も伸びている世の中、「人生働くことになったらしばらくずっとそうなんだから、勉強はできるだけしな」ってばっちゃんも言ってた。

それでもこの大学の身の回りの人は特に真面目で上昇志向の強い人が多いので、より良いクオリティーを目指すと、どうしてもその範囲ではいけなくなる。
それならば、やはり自分の中で少しずつ心がけて手を抜きながら、できる範囲で関わっていくしかないのである。

「あ、今日は最初から(ミーティングに)いられるんだー、いつも忙しいもんね」と言われたとき。
出席率は大事と言っていた人に「無理しないで!休む時は休んでね」と言われたとき。
知る由もなく(つまりミーティング外で)進み決まった話を「一応共有しとく」と話されたとき。

そのいずれも、「いつも休むか遅れるのにな?」とか「休んでもいいけど遅れは取るよ」とか「お前がいなくても進められるんだけどね」とか言われるよりは優しいだろう。しかも正論。嫌味なんてひとつも思ってない善意でさえあるのかもしれない。そこが厄介なのだ。

その「優しげな正論」を耳にすると、比喩ではなく、私の喉が締めつけられる。
締め付けるとはいっても、喉の内側から何かが詰まっていて、それを強く抑えるような感覚がするのである。
気にしないように話していると、声は低く、どんどんガラガラになっていく。むしろペラペラ話していないと、その喉に詰まる何かが隙を見るように肥大化して、呼吸も止めてしまうような気がするのだ。
しかしそのうち何か別のことに集中すれば、いつの間にか消える。
だから気にしないように過ごしていた。

最近またその何かが喉に詰まる感覚がして、だんだん苦しく痛みも感じさせてきたとき、すぐに調べてみようと気付くことができた。
症状を調べるのは治すだけでなく、様々な病気の詳細を見てそれとは違うから安心してくれと思うためでもあると思う。

すると、心理的な強いストレスで似たような症状が起こる「咽喉頭異常感症」というのが出てきた。「ヒステリー球」という言い方もするらしい。
それを漢方の分野では、「梅の種が喉にあるような感じがして、飲み込むことも、出すこともできないことに例えて『梅核気』」と呼ぶらしい。
その説明だけが妙にしっくりきて、あぁこれは梅の種だな!なんて思ってしまった。

ここで話したいことはそれを病気として治療しますとかではない。
自分に優しい自分にしては、他との合併症などを調べた上でそれほどのことではないと思っている。どっちみち治し方については日常の正しい生活習慣と、疲れをため込まないようにして、ストレス源を断つか発散して…ということだ。なお生活習慣に関しては一般的な大学生よりも心がけている方だと思っている。(一般的とは)

ダメなことはダメで、できないことはできないので潔く活動を辞めますとかでもない。
それはそれで、しょうがないこともあるのだ。できないことがあっても、できないことだけではない。これは常日頃、私が大切にしている考え方だ。

話したいのは、そういう経緯を経て、あぁこれは梅の種だな!と思えたこと。それだけである。
もちろん梅の種というのは例えての話だ。
本当に梅の種だとは思っていないし、水素水とか血液クレンジングみたいなものを信じるタチでもない。

確かにラベリングはあるだろう。名前がつくことで存在を理解し、安心する。
そしてその「種」という表現がなんだか本当にしっくりきたのだ。
種というのは何かが芽吹く可能性を秘めている。それが良いものとも悪いものとも限らない。「何か」の前段階としての存在が種だ。
私は前に「喉の内側から何かが詰まっていて、それを強く抑えるような感覚」といった。それを踏まえると、私の心と体がその種から何かが出てこようとするのと、出てこないようにするのとで拮抗している様子に感じられたのである。

だから、あー私はこれでさえもダメだって思って頑張っちゃってるんじゃない?!と気づくことができた。「ダメだと思うこと」ではなく、「ダメだと思っていることに気づくこと」だ。
梅の種はそれを気づかせようとする一種のサインなのだと思う。種だけに。
いつ梅の種が現れるか、もう現れないかも今はわからないが、そうしたら気にしないようにするのではなく気づくことだ、ということを思い出せるようにしたい。
自分に一番優しくできるのは、結局は自分なので。

ちなみに、梅であることにとりわけ解釈はない。
強いて言えば私は梅が苦手。でも花は綺麗だ。
花だったら好きになれるかもしれない。(意味深な意味なし発言)
あと今フリー素材を探していて知ったのだけれども、未熟な梅の種には毒があるらしいね。

「病は気から」ともいうが、気からくる病は、気のせいな(実際にないのにそう思える)わけではなく、実際にある。(いやこれはマジで何言ってるかわかりづらいな)
その「気」は本人にしかわかり得ないから、それをどうやって自分の中で変えられるかというのは、セルフ手術とも近い。南極で自分の盲腸を切除した驚異のソ連医師!みたいなエピソードもあるが、そのレベルのことだと思う。運もあるが、技術もある。
だからこれは無理だって方向に行ったら、さっさとプロに頼もうと思う。