笑いの経験的分析〜M-1グランプリ2024におけるネタの構成〜


計10,000字(4分漫才で2,000字前後)

【1.はじめに】

(1.1.本稿の方法と目的)

 本稿では「笑いとは、頭脳がある情報負荷に対して当該情報は直ちに発散するほうがより負荷が小さいことが明らかになったときに、当該情報負荷を筋肉への痙攣命令として身体へ発散する反射的行動である」と考える。
 この仮説のもと以後の分析を進め、明らかな不条理が分析過程で発生しないということを以って仮説自体の妥当性もある程度肯定されると信ずる。
 本稿は上記の仮説に基づき、笑いの誘因を分解して、「M-1グランプリ2024」の決勝戦3ネタ(随時追加?)をチャート化した上で分析することで、笑いの傾向等について考察することを目的とする。
 お笑い論とはいえ、各漫才つき、称賛や批判を目的とするのではなく、笑いを励起するために最適化された手法のサンプルの一つとして扱うものである。

(1.2.仮説と動機について或いは不要な補足)

 ベルクソン『笑い』岩波文庫を読んでみたことがあるが、この仮説について直接に参照した文献はなく、結局どういう思考プロセスを経てこの仮説に至ったかは忘れてしまった。インターネットで簡単に検索したところ、スペンサーやフロイトの「放出理論」に近しいようであるので、おそらくこちらも参照したのだろうと推測される。
 確証バイアスに過ぎないと言われれば、正しい、その通りである。ただし確証バイアス自体、頭脳が情報負荷を回避するという役割の一端を担っていると推察され、また、本稿は文章という情報刺激を伝達するに過ぎないのであり「情報刺激を増幅させること自体」「読者各人の本稿の論理という情報の追加と、笑いという不可思議に対して各人の頭脳が発する疑問という情報の低減とを総合して、結果的に各人の頭脳の情報付加を減らすこと」「確証バイアスとして無視されることで情報負荷を解消せられること」等の、いずれも筆者の本望である。

【2.機能としての笑いについて】

(2.1.快楽一般について)

 第一に前提として、人間にとって情報が追加されることは有利である。だから、情報刺激それ自体は快楽をともなって受容されるべきであって、進化上そのような選好を獲得していると考えられる。経験的にもそう言えるだろう。食事の味や、運動の感覚など、あらゆる種類の刺激は一般的な程度において心地よく感じられるものである。

(2.2.頭脳の過負荷について)

 しかしおそらく人間のような十分に発達した頭脳にとっては、外的な感覚刺激の他に、言語上の概念のような頭脳自身による思念さえも刺激の対象となり、このように刺激が刺激を呼ぶというような正のフィードバックが発生する場合、これは生命体として大変なアドバンテージには違いないであろうが、頭脳は際限なく無限に刺激を処理しなければならず、これは情報処理器官として明らかな過負荷となる。そこで、頭脳の過負荷を解消・発散するプロセスが必要となる。

(2.3.過負荷の緩和について)

 したがってその刺激を圧縮あるいは発散することによって負荷を低減させることも快楽となる。頭脳はあらゆる出来事から刺激を受け、その出来事はこのように覚えておけば良い或いは忘れてしまっても良いと説明されることで、その刺激の負荷を解消するのである。
 思考すなわち言語化や抽象化のプロセスは、頭脳への頭脳自身による内的な刺激を収束させるほか、外的な感覚刺激を軽減する場合もある。思考的な慣れによる刺激の解消といえるだろうか。情報刺激を蓄積・累加することでむしろ情報刺激の負荷が低減する場合があるのである。それで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言われるのである。枯れ尾花と知っていれば幽霊的な刺激なくなるだけでなく視覚情報も大幅に圧縮される。
 忘れてはならないのが過負荷は避けられるべきとしても刺激自体は快楽だということである。だから集中的な刺激も是認されるべきである。思考による情報の圧縮は長期的に情報の負荷を減らすことがあっても、急速に蓄積される情報を発散するには緩慢と言わざるを得ない。

(2.4.笑いの必要性について)

 笑いはそのように過大に頭脳へあたえられ増幅されてしまう刺激を身体へ発散する一手段であり、進化の過程で、この発散方法である笑いと笑い自体を快とする(少なくとも不快としない)選好を獲得したと考えれば一応の説明はつく。
 それで、笑いとは、頭脳がある情報負荷に対して(情報の蓄積を待って思考プロセスによって負荷の軽減を図る有用性よりも)当該情報は直ちに発散(忘却)するほうがより負荷が小さいということが明らかになったときに、当該情報負荷を筋肉への痙攣命令として身体へ発散する反射的行動である、というのである。
 ある情報について詳細な検討を取り止め、忘却して良い情報群と判断する、しかしインプットされたまとまった量の情報刺激を何のプロセスも介さず無に帰すことはできないから、肉体的な消耗も少なく多数の神経を活用できる顔面や声帯等への無目的な痙攣の命令として、この情報刺激を発散するものだ、と考える次第である。そしてこの発散プロセス自体、刺激の蓄積の快楽とは区別される特別の快楽を持つように思われるのである。
 この笑いに関する仮説は「運動や喫煙、カロリーの小さい酒やダイエットコーラの摂取のように単に刺激を受け取ることによってエネルギーを消費する活動が快楽でありながらこれは、カロリーを充分に含む故に総合してエネルギーを獲得することになる食事がより大きな快楽を発生させるように味覚などが進化してきた(そうでなければ長期間の生存は難しい)ことに依る」ということに似ている。

 この前提が正しいと証明することは不可能であるが、結局のところ経験上妥当であれば十分なので、これ以上の無為な言及は避け、先に進む。(なお、これ以上触れないが、著者は涙も同様に過負荷を解消するプロセスであり、笑いとは異なり短期的・瞬発的な忘却ではなく、長期的・一時的な忘却である、と推測するものである。)

【3.お笑い、意図的な笑いの励起について】

 つまり、我々の頭脳はより(要不要に関わらず、食べ物の味がカロリーがあろうとなかろうと不問であるように)多くの刺激を受容することを求めつつも、同時に過大な負荷を回避する欲求も常に与えられており、情報刺激の受容とその即座の解消との複合である笑いは明らかに我々にとって快楽である、ということを前提とする。

(3.1.ボケとツッコミについて)

 ここで、ボケは、ある一定の情報群、つまり情報刺激を与え続けてその時点では情報刺激が蓄積されることで負荷が解消される可能性を残して頭脳が刺激の収集を緩慢に停止してしまうことは避け、且つ他の一言等の情報(すなわちツッコミ)あるいは特定のボケの累積によって一時点で即座に、忘却すべき刺激であったと判断せられる情報群であることが肝要となる。

(3.2.「緊張と緩和」について)

 ところで「緊張と緩和」という表現は「持続的緊張と即座の緩和」と言い換えられるのではないだろうか。
 例えば車に轢かれそうになって(即座の緊張)ほっと安心するとき(即座の緩和)や、数学の学習を進めて(持続的緊張)徐々に理解が進むとき(持続的緩和)等においては、それぞれ幸福感を持ったとしても笑いは励起されない。
 車に轢かれそうになってほっとして笑みがこぼれるとしてもそれは、車に轢かれそうになった緊張がまだ残っていて(持続的緊張)適当な時間が経過して自分の無為の緊張を客観的に把握する時点(即座の緩和)において笑みがこぼれる、とするのが経験的に妥当である。

(3.4.ボケとツッコミに求められることの一例)

 さらに、笑いによる発散が行われるためには一定以上に過大な情報群が必要であり、ボケは情報群として頭脳へ十分な負荷が累積させる必要がある。そして累積された負荷は一時点において、忘却・発散してよい情報であると即座に判断され発散される負荷の分量もまた十分に多量でなければ、笑いは励起され得ない。
 したがって、ボケの時点で充分に情報を与えうるマンパワーを有すること、且つ、一連のやり取りを通して解消され得ない余分な情報を与えない程度に熟練されていること、が重要となる。前者はカリスマ性・スター性、後者は明晰性・巧緻性などと言い換えられよう。前者はいわばフィジカル、体力的強靭性によって担保・補完されることも少なくない。
 ツッコミは上記のボケによって累積された情報郡を完結させるものであるため、一層の明晰性を要する。また、ネタ構築の時点であるツッコミがどれほどの分量の情報を解消するかは(パフォーマンスや聴衆の共感度等を除いて)決定しており、より聴衆の理解を得やすい効果的な文言及びタイミングで発せられることも重要となる。

【4.漫才のチャート化の方法】

(4.1.笑いを励起するプロセスの抽象的な把握)

 普通、会話というもの疑問と回答を積み重ねて進行する、と言って不条理はなかろう。
 会話の内容を受けて頭脳の刺激を効率的に増幅させ且つ解消させるこのプロセスを、意図的に急速に励起させるすなわち笑わせることが漫才の基本原則となる。
 これがいわゆるコント漫才であれば疑問と回答はそれぞれ出来事と説明と言い戻すと同様の形式で進行することがわかる。
 以下ではこの出来事と説明の連続を抽象的に表現する方法を考察する。

通常、出来事と説明は「出来事→説明」と進み、連続して
「出来事1→説明1,出来事2→説明2」という流れで進む。

 しかし、説明なしに出来事が連続する場合で、出来事が出来事自体が出来事の説明となっていたり、一連の出来事を一度に説明したりする場合もある。つまり、
「出来事1,出来事2=説明1」「出来事1,出来事2→説明1,2」等

 さらに、出説明自体も出来事となりうる。つまり、
「出来事1→説明1=出来事2→説明2」ということも可能だ。

 そうすると、頭脳のプロセス上、結果として「ある事象は出来事である事象は説明だ」と認識されることはあっても、必ずしもある事象が出来事か説明かに分解する必要はなく「どの出来事がどの出来事の説明となっており、どの時点で情報負荷が解消されるか」のみ明らかにすれば笑いの誘因の分析として十分であるということになる。

(4-2.笑いのプロセスの構成の図式化)

 したがって漫才の進行について事象(主に台詞)を時系列で上からチャート化し、どの事象がどの事象の情報負荷の解消となっているかを矢印で表し、ある一時点で解消された事象の郡を大枠で括って示す。
 矢印の有無に関わらず全ての事象はボケである可能性を有し、矢印の出発点となる事象は他の矢印がその事象に向いているか否かに関わらずツッコミであり、狭義には他の矢印他の矢印の向いていない事象・大枠の終結にあたる事象がツッコミと呼ぶこともできよう。次に続く事象を説明し、次の事象に連結している間、その事象は忘却される判断を受けない。それまでの事象を説明することで、事象の連結に切れ目を与え、一つの意味体を完結されることができる。意味体の完結は、明確な「笑いどころ」として理解できる。

 この矢印の説明は、漢文の「返り点」で連結せられる意味体に近いと見れば、わかりやすいかもしれない。(以下のチャートはすべて、M-1グランプリ2024において披露されたネタを文字に起こして引用し、筆者がMicrosoft Wordにおいて作成したものである。)

【5.笑いの誘因についての分類】

 以上で事象の連結方法は明らかにされたが、事象自体の情報の種類についても大枠において分類しておくべきであろう。しかし情報の種類は無限に多様な分類が可能なので、以下の分類は恣意的な判断を多分に含まざるを得ないことに留意されたい。本稿では単に、日常的であるか非日常的であるかというただ一点についてのみ分解する。

 この点について分解するのは、日常的であるかどうかが、頭脳が受容しつづけるかどうかの決定に大きく関係すると考えられるからである。

(5.1日常的情報)

 日常的であるとは、通常の事象や妥当な価値観を指す。
日常は、刺激や負荷を増幅させるかという観点において、聴衆の既に持っている知識を言外に活用させることで各々の頭脳の情報刺激・情報負荷を増幅させやすい一方、視聴者が思い浮かんでいる内容と重複することで増幅がむしろ緩慢となり説明的と感じられ持続的な刺激が途切れる場合もある。つまり、持っている知識なので集めやすい・持っている知識なので不要だ、ということである。
 また、日常は、刺激の蓄積を続けるか解消を発生させるかの判断において、既に知っていることだとわかれば、蓄積の対象でないと判断して構わないという解消を生みやすい一方、万人に強く対応しない故に解消しきれない情報が残る、視聴者が既に解消可能な理解を有する故に情報の蓄積を待たない時点で緩慢な解消が発生する、などといったリスクがある。つまり、そう言ってほしかった、そう言われても、そう言うと思った、等々ということである。

(5.2.非日常的情報)

 非日常的であるとは、特殊の事象や異常な価値観を指す。
 非日常は、刺激や負荷を増幅させるかという観点において、視聴者の日常とは無関係である故にパーソナリティや経験値等に左右されずに刺激の蓄積を促しやすい一方、そもそもの会話への興味を持てることが難しい場合もある。持っていない知識なので集めたい・持っていないし使わない知識なので要らない、ということである。
 また、非日常は、刺激の蓄積を続けるか解消を発生させるかの判断において、完全な異常であるとわかれば、蓄積の対象でないと判断して構わないという解消を生みやすい一方、対応する者が日常に想定できる故に解消しきれない情報が残る、十分な異常でない故に解消される前に急速に発散するに足る情報が蓄積されない、などもいったリスクがある。つまり、それなら忘れよう、そう言わないでほしい、何を言っているの、等々ということである。

(5.3.上記誘因の組み合わせによる効果と分類)

 そうして分解すると、最小の意味体を構築する出来事と説明がそれぞれ日常的であるどうかにより、笑いの誘因を4種に分類することが可能となる。

  日常←日常は補足的・あるある的といえる。
  非日常←日常は王道に是正的・大喜利的といえる。
  日常←非日常的は価値観移動的・逆転的といえる。
  非日常的←非日常的はファンタジー的・不条理的といえる。

(5.4.日常・非日常についての補足)

 日常的出来事が日常的説明で解消される場合、出来事は多少の不条理を含む場合が多い。発見的と言っても良い。
 対して、非日常的説明で解消される場合には、むしろ論理的整合性によって解消されることが多い。
 例えば、日常←非日常について、パーソナリティの異常性を納得させることで逆転的に情報を解消させ得る場合もある。つまり、明らかな異常であれば説明や出来事の累積を待たず、即座に視聴者各々の情報の解消すなわち笑いを発生させる場合である。あるいは日常的な情報をあえて緩慢に積み重ねて非日常を期待させ、逆転的な発散の強調を図る場合があり、これは「フリとオチ」と呼ばれる。しかしその上で実際には非日常では解消に至らず、日常←非日常的←日常に帰着することで解消されることも多い。
 また、非日常的←非日常はメタ的なあるあるとして日常←日常を再構築することも少なくない。

 以上のような視点での、発想の内容や言い回しの調節は、相当程度求められるものと考えられる。細大もらさず分析し尽くした訳ではないが、ここでは日常・非日常的の文脈のみで捉えると上記程度の分析が関の山であり、且つ幾つかの意味で示唆的であることも示したつもりである。より詳細の分析には分解要素と紙面?を追加させることが必要となろう。
 以下、M-1グランプリ2024の分析に進む。

【6.M-1グランプリ2024の分析準備】

(6.1.チャート化の具体的な内容)

 第一に優勝した令和ロマンの最終決戦のネタ冒頭について文字起こし・チャート化を行う。
 意味体の構成は矢印と大枠で示され、事象の分類は、恣意性が認められるものの、この大枠の色として表現している。
 事象について、「ツッコミ」の発信が青色・「ボケ」の発信を赤色としている。
 枠及び矢印について、緑色があるある的・青色が是正的・赤色が逆転的・黄色が不条理的とした。
 飛躍があってメタ的にはあるある的であると判断できる場合には、大枠を緑色・矢印を黄色とすることで、ほぼ完全に不条理的な意味体と、ファンタジー内のあるある的な意味体との、一応の差別化を図っている。


令和ロマンのネタの冒頭(M-1グランプリ2024よりWordで作成)

以上で漫才のチャート化の方法は示された。

(6.2.ファイナリスト3ネタの漢文的圧縮)

 ネタの文字起こしを全文掲載することには問題があるように思われるので、以下では事象に適当な文字を充ててほぼ同様の方法で漢文化したもののみを示す。大量の事象を端的に羅列するために、矢印ではなく返り点とハイフンを用いる。
 以上の前提のもと、M-1グランプリ2024ファイナリストの3ネタ(随時追加?)をチャート化、圧縮して記述すると以下のようになる。
 コンビ名・各審査員の点数/総合得点事象数(≒台詞数)・意味体数(≒明確な笑いどころの数、著者による恣意的判断を含む)、順位等も併せて示している。

3組のネタの形式を圧縮して示そうとしたもの(M-1グランプリ2024よりWordで作成)

【7.M-1グランプリ2024の分析と考察】

(7.1.「爆発」について)

 漫才はしばしば、漫才中の情報負荷の乱高下だけでなく、見る前から見た後にかけて脳の負荷を減少させることも需要される。
 第一に、漫才は短時間である。これはM-1グランプリについて特に言えることである。情報負荷の増減は長時間の蓄積が可能な映画や娯楽小説よりも小さくなる。これと併せて第二に、漫才はしばしば勉強や読書とは異なる位置づけで行われる。短期間であるために絶対量としての快楽は制限されて、差別化が求められ、且つ、情報を蓄積する類の娯楽とも見做されていないお笑いにおいて、脳の不可の減少が需要されることは、容易に想定しうる。
 そこで、漫才における「爆発」とは、漫才中に蓄積させた情報だけでなく、漫才外で蓄積させた情報をも、解消させる笑いであると考えられる。

(7.2.クイズ的なツッコミについて)

 既に持っている疑問を引き出し、既に持っている知識で、解消=爆発させなければならないのである。ここで、ともすると、ツッコミはクイズに近い様相を呈することになる。クイズは、第一に、問題により与えられた情報から解答というせいぜい一単語程度の知識へ負荷を軽減する、第二に、膨大な知識の中から問題に適した知識だけを引き出してその他は一時的に不要であるとする、という負荷の削減作用を持っており、この点において笑いに接近する。総体的に情報を蓄積するという過程にあるので実際に笑いは励起されにくいと考えられる。
 事前の知識内に解答を持たない視聴者の、問題によって思索を引き出され解答によって負荷を削減するというプロセスも漫才に近い。また、クイズにおいて視聴者は、「クイズプレーヤーの知識が膨大である」ということ一点で納得することで、クイズの問題・解答を一笑に付すこともありうる。

(7.3.「きれいさ」について)

 以上の前提から、決勝上位を狙うならば「きれいすぎる漫才」は避けるべき、という表現が導出される、と考えられる。きれいすぎる漫才とは、漫才で発信した情報のすべてを漫才内で解消している、ということを表している。一般に、漫才を見る前から漫才を見た後の脳の負荷が±0になっているということである。
 しかし、「どのように漫才を作ればよいか、どのように人に考えを伝えるべきa」か、など、自ら笑いに関連する表現を試みる者、或いは「どのような漫才が可能かb」に興味を持ち漫才を収集するようなマニアックな観客にとって、「きれいすぎる漫才」が彼らのあらかじめ持っている一般知識を爆発させないとしても、むしろ彼らの疑問abが解消されるという点において「爆発している」のであるから、結果として「きれいすぎる」漫才師のマニアックな評判の向上には寄与するのである。
 きれいすぎる漫才でも、上述の他の娯楽との差別化は十分だと捉えられるし、漫才中、情報の負荷を乱高下させて最終的に規定時間内で±0にするためには、非常な構築力と技量を要するだろう。しかし、娯楽番組として放映され視聴者の中にそのような判断を行う者の占める割合が低い以上、点数に反映されることは難しい。

 これは知名度の問題にも関係する。彼らがどのような漫才をするかという視聴者の期待が大きい場合、視聴者の期待や予想=脳の負荷を完全に解消できず、爆発が難しい可能性がある。視聴者が彼らは何者かという情報を探り続ける場合、視聴者の脳は視聴前よりも高負荷になる可能性がある。しかし過度の不信感を起こさない場合には、期待による爆発の難化が発生しないことによる正の影響が大きいとしても不思議ではない。
 また、視聴者の知識量が多いほど爆発は生じやすいと考えられる。ボケによる想起がより多量になるために、それを「一笑に付す」際の落差も大きくなる可能性があるからである。
 反対に、短期的なキャパシティが小さいほど笑いは励起されやすいと考えられる。発散の必要となる負荷が小さいために、多大な蓄積なく笑いが発生しやすい可能性があるからである。
 ファイナリストに野球やラグビーといったスポーツ経験者の割合が高いことは、上記のような、ネタの構造を複雑化させる技術に関しての土壌がお笑い業界全体に涵養されてきたことで、ネタの構造の巧緻性が担保され、パフォーマー自身らのフィジカルやスター性が大会において重要になってきていることを示している可能性がある。

(7.4.言語構造について次の仮説)

 いわるゆアメリカン・ジョークというものは「…だから言ってやったんだよ、〇〇ってね」のように、日常的な説明を積み重ねたあとに〇〇という異常(言葉の綾など)を最後に打ち出すことで「日常→非日常」という形式の非日常の時点で日常が非日常を説明していたことが明らかになり、笑いを生ずる形式を指すものと思われる。本稿のM-1グランプリの分析においては「前者が後者の説明となっている」ことで笑いを生ずる場合も、「後者が発されることにより前者が後者の説明になっていることが明らかにされる」と解して「日常←非日常」として表現した。しかしその数は決して多くなかった、大きい割合を占めていなかったと認識している。
 実際にアメリカン・ジョークを収集したわけではないので確実なことは言えないが、一文では後置修飾を基本とする英語において「事象→事象」という「フリとオチ」構造が、一文では前置修飾を基本とする日本語においえ「事象←事象」という「ボケとツッコミ」構造が、笑いの励起において主に用いられることは、言語構造とは異なる仕方で事象が連結しているほうが笑いを励起しやすいということを示している可能性がある。しかし当然、普段の言語と同様の構造のほうが笑いを励起しやすいと感じることもあり得る。
 最終的には個人的な選好の域を出るものではないが、傾向としていずれ比率が高い、言語とは異なる構築が二人による掛け合いを複雑な意味構成を容易にすることは十分に考えうるものである。

【8.おわりに】

 笑いについての分析は、プロフェッショナルの経験則や舞台上での淘汰による知識の、足元に及ぶものですらない。つまり本稿はそのプロフェッショナルの努力の結晶の尻馬に乗った衒学に過ぎない。それでも一定の娯楽性や何らかの追加的快楽を独自に示すことができたとしたら幸いである。誰かがこの文章を読む、ここまで読むのに20分以内、10分も経っていないか、ともあれ不思議である。
 日本の笑いに関して最高峰ともいえるイベントについてチャート化の作業を敢行することは、愉快な体験だった。本稿は漫才の構造に関して、感覚的・経験的に妥当な抽象化を達成できたのではないかと考えている。
 M-1グランプリ優勝とは、1・グランプリ・優勝のいずれも参加者の中で最も優れていることを意味し、参加者の中で最も優れていることを重ねて強調・賞賛した肩書となっているのだ。


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