母がちいさく見えるとこんなに泣けるのかという話
この春休みの間は、子たちとほぼ実家にいた。
(途中までは妹とおいめいも一緒に)
帰ったところで当然入院中の父と会えるわけでもなかったが、
これまで父が一手に引き受けていたようなこと
(切れた蛍光灯や傷んだブラインドを交換するとか、こみ入った場所の掃除とか、母の愚痴聴きとか)
を妹とふたりでこなすのみ。
こうなって改めて
父のあののんきな感じが「ちょうどよかった」のだと思い知るのだ。
母もいかに自分が護られ甘えてきたかをこうなってやっと、痛感しているところだろう。
しかしこの2週間超はすぎてみればあっという間で、さあ明日自宅に帰るよ、という段になり
いつもお世話になっている伯父(母の兄)に電話をしたのだが…
今後とも母をお願いしますと伝えながら
このタイミングでまさかこらえきれず泣くとは思っていなかったので
自分でも面食らってしまった。
そうなんだ。
今回の帰省中2度目のweb面会で
小さな画面に映し出される父が
難しい顔をしていて
わたしたちの姿や声を画面越しに見て聞いても
あんまりピンときていないのかもしれないなぁと感じても
それはそれで仕方ない
少しずつでいいから
機嫌良く安心して過ごせるよう
可能な限り回復していってくれたら
って思えるし
そうか、って
そのままを受け止められる気がしていて
だけどそう、むしろわたしは、
この状況をなかなか受け入れられずに苦しんでいる母をひとりにしていかなくてはならないことが
泣くほど辛いんや、心配でたまらないんや、
と気づいたのだった。
ほんで。
まぎれもなくわたしの母なのに
わたしは母の娘なのに
どうしてこんなに違うんだろう
こんなにこころを寄せ
あたたかい言葉をかけてくれて
助けてくれようとする人たちに恵まれているのに
どうして母はわざわざ自分から
しんどいほうに歩みを進めていこうとするのか
どうしてそこに希望を見出せないのか
それにも悲しくなったりもして。
だけど…そうだよね
わたしは仕事でも悩めるいろんな人に出会い
いろんな人生に触れいろんな感じ方や考え方に触れ
自身も地元ではないところで子育てしながらいろんな人の助けを得てきて
自分と同じような感覚の人がそばにいてくれることがどんなにラッキーなことなのか
そもそも自分と近い感覚の人と出会えて繋がれることがどんなにありがたいことか
心強いことか
てかそもそもそれってほとんど奇跡みたいなものだってこととか
実感しながら生きてきたけど
そうだよね、母はそうじゃない
何をしようと兄姉みんなに愛される末っ子で
言わずして自分の思いを汲み取ってもらえることも当たり前で
器用で穏やかな夫がわがままを受け止めてくれることも当たり前で
だからそんな大きな「当たり前」を
今回ひとつうしなってはじめて
そんなの当たり前なんかではなかったんだってこと
認めるのにはとても時間がかかるんだろう
そうやってドツボにハマっている間も
周りはちゃんと見守ってくれてるんだってこと
痩せてしまった体を思って
おかずを作って持ってきてくれたり
あたたかいことばをかけてくれる愛すべき人たちの存在に
わたしはこころからありがとう、と思うし
想ってもらえて
護ってもらえて
母もわたしたちもとてもしあわせだ、と
思うんだけどな
人って
何年生きてきたかじゃないんだなって
改めて思う
経験値って大きいんだな、やっぱり。
そしてわたしがさらに泣けて仕方ないのは、そんな苦しみの渦に飲まれそうになっている母を尻目に、わたしだけがそれなりに満たされていると感じながら更なる自己実現に向かって自分の人生を思いのままに生きようとしていることに、後ろめたさを感じるからなのかもしれない。
泣くことなんてないのにね。
わたしはわたしなんだから。
今回の帰省で久々に会った大人たちに
「大きくなったね」(いろんな意味で😭)
と言われたけれど
そうなんだ
大きく育ててもらったと自分でも思うよ
本当に感謝しかない。
わたしはこれからもたくさんの想いの中に
愛の中に生きていきたい
人のぬくもりや思いやりに護られながら
明日から目を逸らさずにいこう
母よ
大丈夫
あなたも、ちゃんと護られているから。