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坊主は勝負に上手な構図の絵を描けなかった

小学生時代の木曜日は、私にとって居残りの記憶しかない。

当時の放課後は誰かの家に遊びにいき、DSを持ち寄ったりスマブラをしたり、外で遊んだり、健全な小学校時代を送った。
ルカリオを使っていた私はそれなりにスマブラが強かったし、運動もそこそこできたし、勉強もそれなりにできた。
まぁ、全体的に中の上くらいにはうまくこなしていたと勝手に思っている。
唯一、というほどでもないが、苦手だったのは美術系である。歌は下手だし工作は苦手だし絵も下手だし。隣の人の絵を描き合う授業では下手な似顔絵で相方の女子に嫌な思いをさせてしまった記憶もある。時にセンスがないことは罪になる。

だいたい図画工作の時間は木曜に集中していたが、提出期限スレスレになると私はいつも居残りをしていた。彫刻刀を使った作品然り、絵の具を使った絵もまた然り、特に冬場にある展示会なんて大嫌いだった。1つの作業が遅いのと、時間をかけても上手くないのと、適当にやろうとしてもやはり時間がかかるのと、色々相まっていつも放課後に私は残されていた。正確に言うと居残りをしなければ終わるはずもなかった。
「なんで序盤のうちから焦ってやらないんでしょうか?」
居残りしている最中はいっつもこう思ったし、それでも毎度毎度居残りをして、そんなにクオリティの高くない作品を完成させていた。
一度居残りがなくすんなり帰った木曜日には母親に

「あれ?今日水曜日やっけ?」

なんて言われたこともあった。
それほどまでに図工の時間は私に苦痛を与えたし、その期限が過ぎるとまた友だちの家に遊びに行けるありがたみを教えてくれた。
私は美術なんて大嫌い、だった。

時は10年ほど流れただろうか、私は大学生になり、そこから2年が経過していた。大学3回生になり、就活が始まった頃、何を思ったか保育士の資格を取ろうと思った。
前のnoteでも少しだけ触れたのだが、一応目的はあった。ここで述べるほどのことでもないのでまた今度。

保育士の資格ってやつは学科9科目を全て合格点で満たした後、実技の試験に合格する必要がある。
私が勉強を始めたのは3回生の夏休み少し前からだった。

・保育の心理学
・保育原理
・教育原理
・社会的養護
・子ども家庭福祉
・社会福祉
・子どもの保健
・子どもの食と栄養
・保育実習理論

の学科計9科目と、

・音楽に関する技術
(ギターとかピアノを弾けるかどうか)

・造形に関する技術
(上手な絵を描けるかどうか)

・言語に関する技術
(上手に読み聞かせをできるかどうか)

実技3種類の中から2種類を選択して受験する。
ざっとこんな感じの内容である。

学科においては、各科目全て6割を取ることが合格の条件である。
当時調べた頃の合格率は学科が20%ほどであった気がする。また、これらの受かった科目については3年間有効である。年に2回試験があるため、約5.6回分の猶予がある。一度に全ての科目を合格点まで持ち上げなくていい仕組みだそうだ。

その学科を9科目、全て合格すれば、実技試験を受けられる。そこでも選んだ2つの分野のうち、それぞれで6割、50点満点中30点を取らなければいけない仕組みである。この実技の合格率は確か80%前後であったと記憶している。

ここまで長々と語ってきたが、恐らくお分かりいただけたであろう。
そう、私の前に立ち塞がったのはこの実技である。ピアノなんて弾けるはずもなく、練習する機会もなかった私は、絵と読み聞かせの2つを選ばざるを得なかった。

地獄の始まりである。

私は毎日絵を描いた。400枚入りのA4用紙を買い、毎日1枚ずつ絵を描く。とはいえとっかかりもなかった私は、まずポケモンの絵を描くことに決めた。割とモチベーションを保つのに苦労しそうだったことが1つ、人の絵なんて描けるはずがなかったのが1つ。
そして、私は誰かにアドバイスをもらうことにした。そのために、それまでなかったInstagramのアカウントを作り、そこに自分の描いた絵を載せることにした。

「就活と並行して、保育士の資格を取ろうと思います!」

なんて宣言できるような立派な性格をしていないため、コソコソと練習したかった。
「就活が忙しくて、そのくせトチ狂ったようにポケモンの絵を描いているバカ」を演じたかったのだ。
「初手から子どもの絵なんて描いていると目的がバレそう」と思ったのもまた大きな理由だった。
結果的にこの思いつきが功を奏し、アカウントに全ての絵の写真が残っているし、振り返る中で自分の課題が明確にもなった。

ちなみに当時、こんな絵を描いている目的を知っている知り合いは5人ほどしかいなかった。

あまりにも下手なので本当はこんなの載せたくないのだが、絵を描き始めて1ヶ月ほど経ったものである。スマホに映したお手本を見て描いてこの惨状なのだから、なかなか酷いものだと私だって思う。
こうした方がいい、なんていうアドバイスをくれた後輩には感謝しかない。

「味があって、愛嬌があって、斉藤さんが描く絵が毎日上がるのが楽しみ」

なんて言われたこともあった。本当か嘘かはわからないが、モチベーションにはなったし、見ないでくれと思う気持ちも混在した。
それでも自分のために恥を忍んで一生懸命やっていた。
知り合いの中でも信頼できる20人ほど。だいたいがサークルの後輩という狭すぎるコミュニティで、自分の描いた絵を分析して、何がダメか、どうすれば上手になるか模索し続けた。

決まって晩ご飯前後に絵を描いた。
当時のインターンはオンラインだったこともあり、夜の9時に終わる頃にはご飯を食べる時間を絵に充てた日もあった。

そんなことしてるから痩せんだよ。

雀魂と、インターンと、学科のテキストを読み込む時間と、絵を描くのと、時が過ぎるのはあっという間だった。

4回生のゴールデンウィーク前、学科を受験し、その20%の狭き門を通過した。

心理学部に属していたこともあり、またゼミの担当教授は発達心理なんかも専門だったことから、いろいろ教えてもらったりしたし、記憶力に関してはそれなりに自信がある。
法律から栄養から歴史から1から覚えた。

「日本で初めての幼稚園は?」

この答えは「双葉幼稚園」なのだが、
「あれ?クレヨンしんちゃんと一緒やん!」
みたいな発見も楽しかった。
バーネット夫妻ってヤクルトにいそう。
とか、わりかし楽しみながらやってたし、苦手の音楽も譜面を読み取れるまでには成長した。
子どもがいる訳でもないのに予防接種の時期まで覚えた。

「母子及び父子並びに寡婦福祉法」
「母子父子寡婦福祉資金貸付金制度」

言いにくい!
そんじょそこらの早口言葉よりよっぽど滑舌練習になる。

何度でも言うが私は勉強なんて嫌いである。ただ、そんなこんなで割と楽しみながら頭に叩き込み、学科では余裕な点数を取って、あとは実技に備えるだけであった。

余談にはなるが、学科の試験の受験者で、同い年くらいの男性は3人ほどしか見かけなかった。ほとんどが女性で、そういうもんなんだなぁという感想を抱いた覚えがある。だからどうなんて言うつもりもないし特に深い意味もない。あくまでそんなもんなんだって知ってもらってもいいのかな。くらいの意味合いで書いているだけである。
なので「ふーん、そうなんだ」くらいに思ってください。

およそ4ヶ月、マジメにコツコツやってきた結果がここである。当初に比べればいくらかマシになったが、それでもまだ下手なままである。必死に抗ったが、6月にあった実技の試験には落ちた。

24点だった。あと6点、50点満点だから100点満点に直すと12点、それは私にとっては遥か遠くに思える点数であった。
それでも、年明けにある試験に向けてなんとか踏ん張らねばと折れそうになる心を必死に繋ぎ止めた。

この時、「子どもの食と栄養」で少し栄養面に興味を持ったついでに「食生活アドバイザー」の資格勉強をなんとなく始め、どうせ取るならと2級の試験を受け合格した。が、当然本命は保育士資格の方であったし、本当になんとなくであった。

絵を描き始めて1年が経ち始めた頃

上の絵たちが、ポケモンの絵を描き始めて1年経った頃、2枚目は人の絵を描き始めてしばらく経った頃である。

ポケモンの方はそれなりに上手に描けるようになっていると錯覚するほどには成長していた気がする。それでも、構図から何からお手本がない人の絵においては、やはりそう上手くはいかない現実と戦っていた。

「子どもの頃から絵なんて得意じゃなかったし、なんなら嫌いだった。こんなに絵を描く未来が来るとは思わなかった。」

そんな弱音を吐きつつも、これまでやってきたことが無駄にならないように絵を描き続けたし、お風呂の中で桃太郎を3分弱でまとめて読む練習もしていた。
読み聞かせの方の実技は合格点に載っていたのだが、それでもギリギリだった。3分の尺の中に物語を詰め込み、いい塩梅で読み聞かせる。
仲のいい通っていた幼稚園の先生のところにアドバイスをもらいに行ったりしたし、必死でこれもこなしていた。

年明け、大学4回生、卒論の発表会前後に受けたその試験、私の絵には「25点」という評価がなされた。半年の努力で1点しか増えなかった。
忘れもしない不合格通知に書かれたその数字。
私の絶望感たるや凄まじかった。

かけた時間は計り知れず、描いた絵の枚数は600枚を超えていた。
私の力では、私のかけた労力では及ばない現実に打ちひしがれた。
そもそも保育士になるつもりはなかったし、就職を機に絵を描くこともままならないこともわかっていたため、ここで私は諦める決断をした。
来年の1月の試験が現時点で私の実技試験を受けられる権利の最後のチャンスだが、今更どうこうしようというつもりもないし、その意味ではもう心は折れているのかもしれない。

ただ、日本プロ麻雀協会においては、託児システムの充実もあり、もし私が保育士の資格を取っていれば、何かの役に立てていたかもしれない、と歯痒く思うこともある。自分に何かできること、できたことはあったのではないかと、烏滸がましいながらもそう思ってしまう。
私の努力の限界を見た。才能がないということに甘えるつもりはないし、完璧な努力をしたという実感もない。
ただ純粋に絵が上手だったら良かったのになぁと、そう思うだけである。
それは、

「もし私が鳥だったらこの大空を飛べるのに」
とか
「大谷翔平になって160km/hのストレートで三振を取りたい」

みたいな願望とそう変わりない。

絵を描いていた理由を知らない察しのいい後輩には、保育所に就職していたと思われていたらしい。
きちんと否定はしておいたが、もしこのnoteを読まれることがあるならば、初めてその理由を知ることになるのだろう。

虚しさも切なさも、私の弱さも詰まった呆気なさである。50点満点の5点に泣いた私は。合格率80%の20%を2回引き続けた私は、ただ人生を賭けた勝負の場で上手な絵が描けなかっただけであった。

「人手不足で嘆くなら、絵がヘタっていう理由だけで落とすなよ」

そんな悪態をつきたくなったし、自暴自棄にもなった。
当然様々な要因はあるし、単純な問題ではないこともわかっているから、そこに対して抗いたい訳でもない、そんなことに価値はないことを私は知っている。

昨日の夜、なかなか寝られなくって、その勢いに任せて書いてしまった。ただの愚痴か落書きかぐらいに思って流していただけると幸いである。

私が恥を忍んで、下手な文章と拙い語彙力で綴るこんな4600字に価値なんてないのだろうけれど、どこかで誰かの役に立っていれば嬉しいなぁと思ったりします。

ではまた、どこかで。

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