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お盆前に。実家と戦争と。

午前中は実家のお盆の準備。
免許なく足も弱った母の運転手して、お供えとお花買ってお墓参り。13日にお迎えする前に用意しないとね。

 実家の菩提寺には、祖父の戒名と「昭和20年7月24日没」が刻まれていますが、そこに遺骨は眠っていません。ビルマ(現ミャンマー)で戦病死しており、出征前に遺した遺髪と、戦死の報と板切れ一片が届いたそうです。インパールとして語られる中に祖父も含まれているのか、定かではありません。名古屋市東区の大店(おおたな)の家の跡取りとして、明治生まれながら早稲田大学を出た学士だった祖父がそのような最期を遂げた経緯は聞くことができていません。
 その妻であった明治43年生まれの祖母も、女学校の卒業アルバムが遺っており、当時としては良家の娘として育った様子がうかがわれますが、店は空襲で焼かれ戦争未亡人となり、女手一つで2人の男子を育て上げ、隠居前は生保レディを極めた人として保険会社の顧問職につき、表彰盾は数知れず遺した女傑でありました。戦中戦後の苦労話を孫の私に語ってくれることはないまま、そこに眠っています。
  父は、ぼっちゃまとしてばあやに育てられた何不自由ない幼少期から、親戚を頼って疎開した先で食べるものなくひもじい思いをし、戦後は元の大店は消えてぼっちゃまと仕えてくれる人もいなくなり...それでも東区地元の明和高校に進学、美術の道を志すも母子家庭の母に、食べていける道を進めと厳命され愛教大から教職に就きました。幼少期から社会に出るまで、戦争により人生が変わった人でした。疎開先では、学校に通わせてもらっていても弁当はなく、学校に行ったふりをして、墓地の供え物などを盗み食べてしのいだ経験をしていたのだと、後に母から聞きました。
 戦争は本や動画の中で知るものでなく、リアルに存在した身近な人が生き抜いた話なのですが、辛すぎる経験であることや、それを経て落ち着いた今があるのだからと振り返らずなのか、ここに記した程度しか、聞かされていません。私自身も、聞けるうちに聞いて継がねば、と思うようになったのは近年で、もう手遅れでありました。

 午後は来客対応と会派会議のため市役所へ。
 お盆準備の買い物に寄ったイオンモール東浦で、はたけぞくさんのお弁当販売日とのことで、会派2名分購入。控室で机を別にしていただきました。発酵×スパイス×オーガニックの、農家さんこだわりの素材で作られたお弁当。食べ応えあり美味しかったです。

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