オリンピックの価値、とは
開始前から数年に渡って色々と世間を席巻した2020夏季五輪東京大会が終わりました。まだパラリンピックも予定されていますが、こちらも有観客にするのかどうか等がまだ議論されており、関係者の皆さんはまだ息をつく余裕はないでしょう。開閉会式の内容や、決定に至るまでのイザコザ、内容の割に巨額な費用……と細部を見れば議論されるべき事柄はありますが、このコロナ禍において世界大会を1つ完遂したというのは、素直に喜んでも良いのではないでしょうか。
さて、そんなオリンピックについては多くの人が意見を持ち、発信しているところだと思いますので、稚拙ながら私も「オリンピックの価値」について考えてみました。
オリンピックの歴史
さて、タイトルの内容について考える前に、簡単にではありますが歴史を振り返ってみたいと思います。これをご覧になっている賢明な諸氏は復習だと思ってください。オリンピックはそもそも古代・近代と2つに分かれていることをご存知でしょうか。
古代オリンピックは古代ギリシアで行われていたオリンピア祭典競技をルーツとするもので、当時の目的はヘレニズム文化圏の宗教行事だったと言われています。研究によると始まったのは紀元前9世紀ごろとか。凡そ3000年前ということですね。しかしこの行事はギリシアがローマ帝国に支配され、キリスト教を国教と定めたために廃止されます。元々が宗教行事なわけですから、宗旨替えされれば失われてしまいます。
一方、現代に行われている近代オリンピックは、19世紀に復興されたものです。廃止されてから約1500年が経過しており、その目的も世界平和・国際交流へと変わりました。そして、近代オリンピックは間に2度の世界大戦を挟みつつも、今日まで実施されてきたわけです。
古代オリンピックの思想は宗教行事ということもあって、日本で言えば神社の舞などの奉納行事に近い色合いに見えます。どの世界でも同じようなことを考える人々がいるものですね。
商業五輪とは
昨今において、評価が分かれている商業主義五輪。これがそもそも始まったのは、オリンピックが冬の時代を迎えたことに起因するそうです。1976年ミュンヘン五輪でのテロ事件や、1980年モスクワ大会におけるソ連のアフガン侵攻に対する西側諸国のボイコットなど、世界情勢に振り回されつつも行われていたオリンピックでしたが、参加国などが増えるに従い、財政負担が大きくなったことで赤字が発生するようになっていました。
これに対し1984年ロサンゼルス五輪ではスポンサーの選出、参加費徴収などによって巨額の黒字を達成しました。これがいわゆる商業主義と呼ばれるものです。黒字を計上したロサンゼルス五輪を受け、オリンピックは儲かるぞという空気が世界に流れたことで、各国は様々な力を駆使して何とか自国にオリンピックを招致しようとするようになりました。
理念を考えると「赤字でも続けろ!」 という声が聞こえてくるのはわからなくもないですが、開催して赤字になるイベントを進んでやる金満国家はないでしょうし、国民の反対もあるでしょう。
私個人の意見とするならば、商業五輪への転換はオリンピックそのものを維持するための方策としてやむを得ないものだったと思います。
オリンピックの意義
今回のオリンピックをご覧になっていた方は、様々な競技において各国のアスリート達が活躍する様をTVやSNSなどで知っていたかと思います。
各国のアスリート達は国家・地域代表として自身の力を発揮していましたね。
オリンピックは純粋な競技の場として残し、ナショナリズムを煽るようなことがあってはいけない、という論調も存在します。
しかしどれだけ政治や国とは関係ないものと取り繕ったところで、招致には政府の支援が絡み、国の名前を背負っている以上はそういった柵から逃れることは出来ないでしょう。一端に言葉を使うならば国威発揚というべきものでしょうか。そして、自国の選手が勝利すれば喜んだり、互いに健闘した諸外国の選手を祝ったり、式のパフォーマンスに一喜一憂したりすることで、自身の体感満足度を高められれば、それこそがオリンピックを開催した意義というものではないでしょうか。
オリンピックの価値
ようやく主題です。私が思うオリンピックの価値とは、次の3つです。
①非日常感をエンタメとして味わう
②普段あまり意識しない諸外国の存在を再認識する
③自己アイデンティティを満足させる(自分事化)
①は文字通りです。200以上の国と地域から選手が集まり開催されるビッグイベントは、オリンピック以上のものはありません。W杯やWBC等も国を超えていますが、それでもオリンピックと比べると競技数や参加者数に雲泥の差があります。これほどの非日常感を味わえるイベントは、元来祭りごとが大好きな人間としては外すわけにはいかないでしょう。
②も文字通りです。世界には200以上の国と地域がある、ということは義務教育などで既に理解しているでしょう。しかし、そこに実感は感じられないと思います。どうしても深く知ろうとするには国の数が多すぎると共に、近隣諸国と違って遠い国の存在が普段話題になることはほとんどありません。しかし、オリンピックの場で聞いたこともない国の選手がいて、自分達が知っているスポーツをしているという現実感のもたらすインパクトは決して小さいものではありません。
③は少しわかりにくいですね。オリンピックにおいて自分と同じ国の選手が自分が遊んだことのあるスポーツと同じ競技で活躍することで、同じ物を持つ相手に対する親近感が湧き、ひいては自己肯定感に繋がると思います。「日本人凄い! 」 などという言葉が発せられるのはその最たる例といっても良いでしょう。
あとがき
関係者の皆様は本当にお疲れ様でした。前代未聞の開催で大変なことは種々あったでしょうが、それでも実現に漕ぎ着けたのは皆様の尽力なくしては叶わなかったでしょう。
色々と書きましたが、オリンピックに出場しない・直接の関係者ではない私たちは頭を空っぽにして競技風景を眺める、というのが最大の楽しみ方であるというのが厳然たる事実であります。