マイノリティのギャップ
過日、東京都の小池百合子知事が、渋谷に若者を対象にしたワクチン接種会場を設ける、という施策を実施しました。
その結果、渋谷に設けられたワクチン接種会場には多くの若者がやってきて、ワクチンを接種しています。
これについての小池都知事の発言はさておき、そもそもこの渋谷の接種会場を設けた理由としては「若者がなかなかワクチンを接種しに来ない」というものがありました。ところが蓋を空けてみると実際はその逆で、若者は一刻も早くワクチンを打ちたがっているというのが大勢いるということが明らかになりました。
いつの時代でも言われますが、政治家・行政府が考えている世論と実際の状態には少なからずギャップが生じています。今回はどうしてこのようなギャップが起きてしまったのかを考えてみたいと思います。
多数派=マジョリティは喋らない
世の中のあらゆる事柄、テーマについてはほぼ必ず対立意見が生じると言っても良いでしょう。そして、その際に構成されるのが世論の大多数を占める「多数派」と呼ばれる立場の人と、「少数派」と呼ばれる立場の人です。なお、この場における対立とは必ずしも1対1を示すものではなく、大枠で1つの多数派と複数の少数派がいるようなイメージですね。
して、世論の大多数を占める多数派ですが、その動きは極めて鈍重かつ寡黙です。多数派は公の場において主体的に意見を主張したり、多数派の意見を認めさせるために行動を起こしたりはしません。何故なら、既に数の優位を持っているからです。こと近代の人間社会においては、数の優位こそが集団の方向性を決める最重要要素となってきました。顕著な例が選挙投票です。既に多数派が数の優位を取っている以上、この社会は多数派の意に沿った方向に進んでいくということが確約されます。なので、わざわざ意見を述べたり行動する必要性が薄いのです。
また、日本社会においていえば(他の国でも同様のことが起こっているかもしれませんが)、同調圧力というものの存在も欠かせません。集団においてただ1人だけが対立意見を述べ続けるのはエネルギーが持たない上に、社会性動物の集団である人間の中では生きづらいことでしょう。いずれは同調圧力を受け、完全に折れこそしないもののある程度迎合することになるに違いありません。
少数派=マイノリティは喋る
一方で少数派は行動・主張をしなければ生きていけない存在です。多数派の項で述べたとおり、存在しているだけでは多数派に押しつぶされてしまう少数派は、様々なところでロビー活動したり、デモ活動をしないと「意見そのもの」が社会から抹消されてしまうことになります。”聞こえていないものは存在しないものと同じ”ということです。有史以来、少数派はどのようにして己の意見を社会に伝えていくかということを常に考え、そして実行してきました。
近年において、インターネット社会の隆盛、そしてSNSを中心とする新しいコミュニケーションの様態への転換が進んだことで、個人と社会の接点は極めて近いものとなり、またその”拡散力”も大幅に向上しました。従来であれば、社会の片隅で細々と話されてきたものが、瞬時に世界へと届けられるようになったのです。言ってみれば、井戸端会議の内容がリアルタイムに全世界のスピーカーに配信されているようなものです。これにより、少数派の意見がより取り上げられやすくなってきました。その大きくなった”少数意見”に振り回されているのが、自治体や政府、そして大衆であるのでしょう。
今後どうしていくべきか
ここで断っておきますが、私は「マイノリティは主張をするな」と述べているわけではありません。人はそれぞれ何かのコミュニティに属しており、あるマジョリティのコミュニティにいる人が別のマイノリティのコミュニティに属しているということは当然あります。また、歴史が示すようにマイノリティの意見を無きものとして扱ってきたことによる事件などもあります。
私が主張したいのは「マジョリティも主張をするべきである」ということです。
先に述べたとおり、現代社会はかつてないほどにマイノリティの意見が聴こえやすい社会へと変化しています。そうすると、先の渋谷ワクチン事例のように「マイノリティの主張こそが多数派が求めているものである」という誤解を招いてしまうのです。以前であれば、多数派が主張することでマイノリティの意見が消えてしまうという心配もありましたが、現在の構図を考えるとその心配はこれまでよりも少ないものになっているでしょう。
「沈黙は金」という格言もありますが、現代において「喋らない者は無い者」という扱いになりかねません。双方が主張を述べられるようになって初めて、社会が安定につながるのではないでしょうか。