戦争が起きた場合って考えたことある?
世界が揺れている。
日夜流れる最新情報、現地住民の様子、政府発表、SNSのコメント…。
そう、ウクライナ戦争である。
本稿ではこの事柄について詳述するのは避ける。
理由としては、情報が錯綜していること、報道には意識するしないによらずして色が付いていると考えるからである。
ここでは、そもそも戦争って何なんだろうというところについて考えてみたいと思う。
「戦争はしない・してはいけない」
我が国の最高法である日本国憲法で謳われている文言であり、この記事を読んでいる諸氏も学生時代の社会の授業などで教えられたことだろう。
私は太平洋戦争においてアメリカ合衆国に原子爆弾を投下された広島出身であるため、戦争経験色が薄い地方と比べると平和学習は一頻り受けてきたと思う。
イメージされる戦争
戦争が起きると日常生活は失われ、皆兵となり、働くことになる。武器を取り、主体的に他人を殺傷しなければならない。過去の大戦のように、大量破壊兵器が用いられれば、地獄と化す。
そういったイメージで描かれるのは、20世紀初頭に勃発した第二次世界大戦に起因するものだ。はだしのゲンが象徴するように、民衆一人一人が戦いに赴く。空爆に竹槍で対抗するなどなんて滑稽なことか、と現代の私たちは思うだろうが、恐らく当時の人々からすれば必死だったのだ。
一方、近代戦はというと色を変えた。私はまだ生まれていなかったが、90年代頭に発生した湾岸戦争では、テレビゲームのような画面を通して戦争が行われていた。画面の向こうは抽象化され、かつてのイメージとは裏腹のスマートな戦争であった。
21世紀、国同士の直接的戦争は無くなった。先進国はこぞって「テロとの対決」を主軸に置くことになった。最初こそイラク戦争のようなものな戦争もあったが、目的としては「大量破壊兵器の阻止」(世間で疑義が出ていることは事実)である。国土を蹂躙するものではなく、無人機や戦闘機、空挺部隊によって拠点だけをピンポイントで襲撃するやり方であった。ある意味、旧来からのやり方を続けてきたのはイスラエルとパレスチナの争いのみだと思う。
地獄の蓋を開けて帰ってきた20世紀
しかし今回の戦いでは20世紀に置き去りにしてきたはずの過去の亡霊が再び首をもたげたのである。空爆部隊による先制攻撃、機械化部隊による陸戦。21世紀らしく、ネットワークを通じたサイバー攻撃も並行しているようだが、その全容は世界に「戦争とはこういうものだった」ことを強烈に思い出させたのである。
ロシアと対峙することとなったウクライナは、大統領が総動員令を発令。総力戦の勢いである。まさしく、戦後教育においていささか時代遅れであるかのように語られてきた総力戦が再び舞台に上がったのだ。
さて、今回の戦争は遥か欧州の地で行われている。同じような舞台で行われていた第一次世界大戦のときにはどさくさ紛れの「二十一箇条の要求」をやっていた日本だが、当然現代社会ではそんなことはしていない。帝国主義は終わったのだ。その代わり、SNSでも取りざたされていたのは近隣諸国の動向である。
今更語るべくも無いだろうが、極東アジアにおいても火種はいくらでもある。日本に関するものでは尖閣諸島、北方領土、竹島、北朝鮮拉致問題などだろうか。
もう少し尺度を広げると香港は少し前に話題になったし、台湾は歴史的背景や現在の状況からいつ戦時体制になるかわからないと考えているだろう。現在勃発しているウクライナ戦争は、地理的には遠いが当事国の1つであるロシア連邦は日本とも国境を接しているのである。まさしく明日は我が身だ。
SNSを見ていると、国内の論調は「この機に乗じて中国が何かしてくるのではないか」といったものが多い。「弱い国が強い国に歯向かってはいけない」という総領事の発言も話題になった。
ここで中国は脅威ではないですよ、と述べるつもりはない。中国が何かをしてくる、というか、中国は昔からEEZや領海近傍に軍艦を差し向けたりしているし、防空識別圏問題だってあった。要するに「何かをしてくる」ではなく「既にその何かをしてきてますよ?」という話である。
目下気にするべきは、実際に腕を振り上げたロシアである。
沖縄と違い、北海道には米軍基地はない。(キャンプ千歳はないも同然である)。恐らくこれは位置関係的に北海道をロシアとアメリカの緩衝地帯としているのだと考えられる。
つまり、NATOとロシアの緩衝地帯であったウクライナと似たようなポジションではないか。
戦争において二正面作戦は愚策、と述べられることも多いため、即座にどうこうなることはないのかもしれないが、そういうポジションにあるということは何となく頭に入れておいていいのではないか。
日本における戦争とは、起こるはずのないモノ
さて、話題が八方に散らかってしまったが、日本における戦争とは、である。序盤でも述べた通り、日本では「戦争はしてはいけない、しないもの」となっている。故に、起こったらどうするかという議論が発生しないのである。
だから今回のような情勢の時に、誰も何も判断できないのだ。普段は声高に憲法9条を守りたい人々も静穏である。だって、戦争は起きないのだから。起きてしまった瞬間に頭は真っ白である。
こうした「何となくだけど戦争は起きないだろう」という感覚そのものが、右派の人が言う平和ボケなのではないかと思う。「9条は国内からヒトラーを生み出さないためのものである」と共産党の志位氏は言っていた。仮にそうだな、として外国から戦争を吹っ掛けられない方法は考えたことはあるのか、と思う。
国民ひとりひとりが戦争すべきだ!なんて考えている国はそれはそれでヤベー国だが、少なくとも国政に携わる者はそうした有事が起こることも考えるべきだし、考えていないはずはないよね、と心配になる。
「かつて戦争をした悪い国」という日本。じゃあ戦争をしないために国家すら脅かされても何もしないのならば本末転倒ではないか。
普段から平和路線を謳う国でもいざとなれば総動員はするし、世界で一番平和な国だろうと(日本人が思っているだろう)永世中立国のスイスだって家庭に銃を持ちいざという時には戦いに出るのである。
かの有名なマキャベリの『君主論』にも、戦争は外交の手段であると書かれている。手段と目的を取り違えているのである。
私たちは戦争を吹っ掛けられても抵抗しなかったので戦争せずに無血開城で済みました!バンザイ!なんてコントとしても無能である。幕末の内戦でもあるまいし、無血開城なんて童話の世界だ。
改めて述べるが、私はウクライナ戦争に介入しろ、と言っているわけではない。アメリカの言う通り、第三勢力が介入すればこれは世界大戦になってしまうというのは極めて確度の高い予測だと思うからだ。
しかし、当事国のウクライナからしたら「誰も助けてくれない」ということになるだろう。
ほかの国で同じようなことが起こった時に、世界大戦にしたくないから、という理由で世界が助けてくれないのであれば、自分の国は自国で守るほか無いのである。
第二次世界大戦後の日本は天国のような国であった。アメリカの傘に庇護され、内戦もなく、経済復興から成長して経済大国と呼ばれるようになった。これは偏に普通の国家が担うべき「軍事的責務」にリソースを割く必要がなく、その分のリソースも経済や社会保障にぶち込んできたからである。
しかし今後はそうもいかないだろう。
国際連合を主導とする第二次世界大戦後の新秩序、米露冷戦終了後の21世紀秩序に対して大国が挑戦を仕掛けている。そして他の大国もこの様子を窺っている。
アメリカが主導で組み上げてきた世界の警察としてのパワーは低下し、アメリカの庇護に置かれて繁栄を謳歌してきた日本もウクライナ戦争という”意図しない外圧”によって、軍事も考えなければならない普通の国家へと転換を迫られるだろう。
少なくとも、「戦争が起きるなんて想定してなかったので頭真っ白デス!」とならないように、勃発した時の事にまで一人一人が思考を巡らせるべき時が来たのである。