ゴジラSPとシン・ゴジラの共通点、あるいは、現代社会人の疲れ切った心とその清涼剤という観点
今更だが、今春アニメ『ゴジラSP(シンギュラポイント)』が面白い。今作はポリゴン・ピクチュアズ製作の三部作映画『GODZILLA』に次ぐアニメーション形式でのゴジラ作品となる。
ストーリーをかいつまんで説明すると…と思ったがすでに終盤に差し掛かっている作品の概要について語ってもしかたないので割愛。
今回語りたいのは、表題の通り、2016年公開の映画『シン・ゴジラ』との共通点および、何故この二作に筆者が強く惹かれたのかということについて語っていこうと思う。では行こう。
共通点とは
結論から言ってしまえば、ゴジラSPとシン・ゴジラに共通しているのは、「パーソナリティの排除」ということだ。パーソナリティの排除と言っても、別に各キャラクターに個性がないということではない。むしろ二作とも登場キャラクターの個性はとても強い。少し例を挙げるだけでも、ゴジラSPに関しては主人公二枚看板である神野銘と有川ユンの二人からしてとてつもない個性だ。銘は理学部院生であり、「存在しない物質でできた存在しない生物」について研究する学問ビオロギア・ファンタスティカを専攻する天才型の女性だ。豊富な知識と優れた洞察力を持ち合わせるが抜けたところもあり、それが彼女というキャラクターのいい意味でのスパイスとなっており正直とてもかわいらしい。対して、有川ユンに関しては、見た目は正直某万事屋の天然パーマ侍にしか見えない。性格は冷静沈着、彼もまた工学、特にシステム構築に関するエキスパートであり、コンテストで世界一になるほどの実力の持ち主。しかし人との接し方に多少難があり、第一話では警察に事情聴取された際には自身で質問に回答せず、制作したAI「ユング」に代わりに応答させたりしている。
一方、シン・ゴジラについてもキャラクターの濃さという点では負けていない。主人公の矢口蘭堂は演じている長谷川博己氏の演技もあってか、何気ない一言にしても特徴的な物言いであり、性格もまるで漫画のキャラクターかのような、いい意味で一本筋の通った、悪い意味で融通の利かないキャラだ。
さて、では最初に挙げた「パーソナリティの排除」とはどうつながるのか。この二作については、各キャラクターの個性という点については非常に盛り込まれているものの、その性格のバックボーンとなる過去の出来事や人間関係といった点については全くと言っていいほど語られていない。それこそが、パーソナリティの排除なのである。人が何かの作品に触れて、そこに感情移入するためには、各登場人物に対しての共感が必要である。その共感に必要なことこそが、各登場人物の過去、人間関係、心情といったパーソナルな情報なのだ。
このため、ゴジラSPおよびシン・ゴジラについては、登場人物に対して深く感情移入するということはない。登場人物という言い方をしているが、登場するキャラクターはあくまでも、「物語を筋書き通りに進めるために機械的に配置され、その役割を果たすための舞台装置」に過ぎないのである。もちろんこれは褒めている。数多くの登場人物が織りなす群像劇とはいわば真逆の、確固たる序破急が定められたストーリーがあるからこそ、そのストーリーに必要なピースとしてのキャラクターであり、逆算的に生み出されているのだ。
疲れた社会人がすき好むワケ
さて、何の自慢にもならないが筆者は日夜疲れ切っている。社会人として生きている人間であれば、誰しも疲れていることであろう。それが日本で社会人として生きるということなのである。ああ無常。
まあそれはさておき、こういう人は筆者以外にもいないだろうか。
「昔はアニメ作品、ゲームが大好きで寝る間を惜しんで楽しんでいたが、最近はめっきりそんなことも少なくなった。でも決してそういったものが嫌いになったわけではない」という症状だ。
何かの作品に触れ、それに感動するときは大きくわけて二種類ある。それは物語に感動する場合と人に感動する場合だ。後者は、今まで何度か出てきた「登場人物への共感」に起因するものだ。感動超大作!などと銘打たれた作品は確実に登場人物の心情、境遇に視聴者の心を揺さぶる仕掛けが施されている。そして、心が揺さぶられるというのは、たとえそれがどんなにいい意味での感動であり良い経験となったものだとしても、疲れるのだ。疲れちゃうのだ。
社会人生活の中で擦り切れてしまった枯れたハートは、そのいい意味での感動ですら、負担になってしまうことが往々にしてあるものなのだ。
対して、物語への感動。これについては、登場人物云々というよりも、物語としての面白さ、そこには世界観、設定、構成等様々あろうが、こちら方面への感動については心はさほど憑かれない。それはなぜか、そう、人への共感というフェーズを要しないからである。
個人的にであるが、昔のゲームの方がさくっと出来たという事も結局これに起因するのではないかと思われる。今のゲームは美麗なグラフィックにフルボイス、登場人物への共感度は否が応でも高まり、いわんや彼らが世界を揺るがすような事件に立ち向かったり自身の命を懸けて立ち向かったり…作品の面白いつまらないは別の話として、「心が揺れ動く」度合いは強制的に引き上げられるのだ。古のゲームについていえば、荒いドット、セリフはテキストと、決して「リアル」とは言えないものであった。そして、足りない部分はユーザーの想像力にゆだねられていた。つまり、裁量は自分次第だったのだ。
おわりに
以上が、筆者自身が何故こんなにもゴジラSP、シン・ゴジラに惹かれたのかということの雑感である。余談ではあるが、劇場公開時、筆者はシンゴジラを20回見に行ったし、ゴジラSPについてはネットフリックスで周回視聴している。共感がなんだと色々語ったが、結局は趣味に合うの一言に過ぎるのかもしれない。それを言ってしまっては、元も子もないわけだが。
了