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企画力を身につけるために、ホコリだらけの書庫にこもった話

 私が最初に「企画」という言葉を意識したのは、20代前半のころだった。出版社に新卒入社して、鼻息荒く「さあ世界を変えてやるぞ」と意気込んでいた当時の私には、雑誌編集の現場は不思議な輝きをもった場所に映った。

 先輩は皆、とりどりの有識者に取材をしては、世の中の出来事を一望するような一冊を作り上げていく。そんな姿が妙にかっこよく、私も早く「おれの企画」を世に問いただしたいと思っていた。だが、実際にやろうとするとこれがそう簡単でもない。先輩たちは「へえ、面白いね」と言いながらも、いとも軽々とボツを量産する。そのスピード感を目の当たりにして「面白くない企画」は一刀両断にされる世界なのだ、と背筋が伸びたのを今でも覚えている。

 そもそも、企画というものは「文章として提案された一行」ですべてを見抜かれる。雑誌の特集だろうが、Podcastの新番組だろうが、大枠として「何を、誰が、どうやって語るのか」が1行で魅力的に説明できてしまわないと、相手に振り向いてもらえない。まるでチケット売り場で「あなたの作品の見どころは?」と聞かれ、一瞬で答えないと即座に行列から弾かれるような感じだ。私も新人編集者として、先輩の背中を追うようにその企画作りを学んでいったが、最初は玉砕続きだった。

 「で、誰に取材すれば面白いの?」と問われて、半端な下調べで出した名前が「誰それ?」と返される。ちょっと必死になって、「今話題のアベノミクスについて、その真贋を掘り下げたいんです」と言えば、「へえ、アベノミクスを語るなら、王道は○○教授か△△さんだけど、誰に取材すれば新しさがあるの?」と詰問される。私の知識の引き出しはまだまだスカスカだったから、王道を押さえた上で「新しい角度」を提示するという発想まで、なかなか追いつかなかったわけだ。

 ただ、私は地味な作業なら黙々とやれるタイプであるらしい。先輩の指示を受けるまでもなく、「ひたすらバックナンバーを読み込む」「競合誌の特集を片端から並べて“どのテーマを誰が語っているのか”を一覧にしてみる」といったことは素直にこなした。出版社の書庫にこもると、埃っぽい独特の匂いが鼻をくすぐるけれど、その中で「こんな論客がいたのか」「過去にこんな提案があったのか」と知っていくのは楽しかった。じわじわと頭の引き出しに資料が詰まっていく感覚は、まるでゲームでステータス画面のゲージが少しずつ満たされていくようで、私の中では秘密の昂揚感があった。

 それから半年くらい経った頃に、ようやく「お、これはいけるかも」という企画が生まれ始める。最初のうちは先輩が持ってきた企画をアシスタントとして手伝うだけだったのが、やがて「ノムラくんが見つけてきた人」を雑誌に載せてもらえるようになった。今思うと、このときの感覚はちょっと小さなガッツポーズをしたくなるくらい嬉しかった。「こういう視点の話、面白いね」と先輩が笑ってくれると、やはり人間、次も頑張ろうと思うものだ。

 しかし、やや調子に乗りかけた頃、転んだのもまた自然の摂理というやつだ。雑誌編集部で2年目を迎えた私は、複数の人に取材をしてルポをまとめるという企画に挑戦した。その原稿は外部の書き手に依頼して、私が編集するという段取り。ところが、これがとんでもなく難しかった。

 締め切りの直前、先輩が原稿を確認した瞬間に「え、これ載せる気?」と強烈な一撃を見舞われたのだ。顔から血の気が引いた。書き手の方にも「すみません、内容を大幅に修正させてください」と連絡し、一晩で記事を組み替える羽目になった。その修羅場を乗り越えたとき、「ああ、まだまだ実力不相応なことに手を出すのは危ないんだな」と心底痛感した。

 その後、私は出版社からコンサルティング会社へ転職し、さらにNewsPicksというウェブメディアに移った。最初は取材・執筆を任されていたが、途中でイベント事業のマネージャーや編集部デスクという役回りを担当するようになったことで、「自分の企画を通す」だけでなく「他人の企画をジャッジする」立場に回った。

 面白いか面白くないかの線引きを、メンバーと一緒にやっていく。その作業を通じて、「なぜその企画は魅力に欠けるのか」「どうすればもっと面白くなるのか」をはっきり言語化できるようになってきた。

 世の中にはすでに数多くの企画やコンテンツがあふれていて、凡庸なものとして素通りされるか、斬新な切り口として輝くかは、一つの線で区切られる。私はその線を、あらゆる編集現場で意識せざるを得なくなったことで、知らず知らずのうちに自分の中に「企画の基準」をつくりあげていたのだと思う。

 もし仮に、私がファッション誌やグルメ情報誌といった未経験なジャンルの仕事をいきなり担当すれば、ひどい失敗を繰り返すかもしれない。でも、そこでも同じように「そのジャンルの王道と新しさの見分け」をインプットすれば、いずれは通用するだろうと今なら言える。これは決して特別な才能ではなく、一種の作法と体力の話だ。雑誌編集でもPodcastでも、必要なインプットを積んで「こういうフォーマットなら、こういうアプローチが面白い」と予測する。その積み重ねが企画力を裏打ちするのだ。

 振り返れば、私は一度だって「初めから巧みに企画ができた」わけではない。ボツも量産したし、先輩方の喝もたっぷり浴びた。その中でたどり着いた実感は、ひとえに「地道な観察と蓄積によって、企画は形になる」ということだ。クリエイティブの仕事の裏側には、泥くさいインプットと検証が必ず横たわっている。

 そう考えると、あの書庫の埃っぽさや、徹夜明けの原稿修正も、それなりに愛おしく思えてくるから不思議だ。たぶん、一夜漬けの徹夜を越えた先に見えた世界は、当時の私にとっては小さな秘密基地だったのかもしれない。そんな日々の積み重ねの末に、私はようやく「企画力ってやつは、ひたすら引き出しを増やして、それらを絶妙に組み合わせる行為なんだな」と腑に落ちるようになったのだ。

 もちろん今だって、あたらしいジャンルに飛び込めば、きっと最初は初心者丸出しの顔をしているに違いない。だけれど、その領域の「王道」と「新しい切り口」をつかむために、いそいそとバックナンバーを読み漁る自分の姿は容易に想像がつく。

 「企画力」は才能ではなく、習得していく態度のようなものだ。最初は誰でも不格好。隣で先輩が笑おうが関係ない。笑われたぶんだけ強くなる、あの雑誌編集部の書庫の匂いを思い出しながら、私はそう断言できるようになった。今でもときどき、夜中に机でうつらうつらしながら、ふと「ここをこうすれば面白くなるんだ」と思い立つ瞬間がある。そのとき、少しだけあの頃の自分を褒めてやりたい気持ちになるのである。

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