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澁澤龍彦『快楽主義の哲学』:幸福を超えた人生の喜びを求めて

皆さんこんにちは、津島結武です。
今回は、澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』(文春文庫)を読んだので、その読書メモを通じた感想を語りたいと思います。


快楽と幸福の違い

快楽と幸福は、しばしば同じものと考えられがちですが、実は本質的な違いがあります。

幸福は、苦しみや苦痛を回避しようとする消極的な心理状態です。
つまり、不快なものから逃れることで得られる満足感を指します。
一方で、快楽は、能動的に喜びや楽しみを追求する積極的な心理状態なのです。

また、幸福は個人の主観的な感情に依存するため、時代や文化によって幸福の基準は大きく変わります。
しかし、快楽は身体的な感覚に根ざしているため、万人に共通するものです。

さらに、現代社会は「延長された満足」を重んじる現実原則に基づいています。
つまり、すぐには満たされない欲求を抑制し、ゆっくりとした充足を目指します。
一方で、快楽原則は、欲求をストレートに満たそうとするものです。

このように、快楽は能動的で普遍的な概念であり、一方の幸福は消極的で可変的な概念なのです。
真の人生の喜びを得るには、幸福ではなく快楽の追求が重要となります。

反快楽思想の虚偽

本書では、博愛主義や「無知の知」など、快楽を否定する思想の虚偽性が指摘されています。

博愛主義は、他者への思いやりを説きながらも、実は自分自身が不幸や絶望に陥っているため、虚偽の思想なのです。
また、「無知の知」とは、自分自身の無知を認めず、無知を武器に他者を貶めようとする卑怯な手法です。

これに対して、自然と一致することを目指すのエピクロス哲学やストア哲学を取り上げています。
これらは快楽主義と禁欲主義の対立から、相反するものと思われがちですが、エピクロスとストアは共に「アタラクシア」(静穏)を追求する哲学です。
前者は緩く考えることで、後者は自己規律によってそれを目指そうとします。

このように、反快楽思想には虚偽が含まれています。
博愛の仮面に隠れた自己憐憫、無知を正当化する高慢、自然からの逸脱など、快楽を否定する思想の多くは矛盾に満ちているのです。
快楽を是とするか非とするかは別として、少なくともこれらの反快楽思想は虚構の上に成り立っていると言えます。

快楽主義の真髄

真の快楽主義とは、死への恐怖から解放され、退屈を乗り越えることです。

まず、人間が死を恐れるのは、死後の感覚の欠如ではなく、空想に囚われているためです。
生きている間は、この死への空想を排除し、現在を全力で生きることが重要となります。

次に、人生には避けられない退屈がつきまといます。
しかし、退屈から逃れようとする動きこそが、新しい発見や進歩につながるのです。
動物のように退屈を知らず生きるよりも、退屈に立ち向かう人間の方が高みがあります。
ただし、刺激への渇望が行き過ぎれば、麻痺を招いてしまいます。
適度な退屈を受け入れつつ、新しい快楽を見出していく心構えが必要になります。

このように、真の快楽主義とは、死の恐怖から解放され、退屈を乗り越えて、現世での快楽を追求することなのです。
生と死、退屈と刺激の狭間を行き来しながら、絶えず新たな喜びを発見し続けることが、快楽主義の核心なのです。

快楽の本質

快楽の本質は、積もったエネルギーを完全に解放することにあります。
性的快楽においては、オルガスムが快楽のピークであり、その瞬間にこそ本当の快楽が宿ります。

たとえばノーマン・マイラーは、「オルガスムの性質は無限のスペクトルであり、本質的に弁証法的である」と述べています。
つまり、オルガスムの極致には、様々な段階と矛盾が含まれているのです。

さらに、フロイトの「死の衝動」という概念を引き合いに出せば、オルガスムの絶頂で死を予感するのは、無意識のうちに死への欲求を体現しているからでしょう。
情死の習俗にも、この恍惚の極限を永遠化しようとする試みが現れています。

一方で、乱交は究極の快楽を実現する特殊な場です。
個人の快楽と全体の快楽が一致し、身分や羞恥心を取り払った開放的な世界が創出されます。
それは所有権や階級観念を否定し、すべての人間を裸体に貶める、平等な快楽の世界なのです。

このように、快楽とは欲求の完全な解放であり、ときに死や無への回帰をも予感させます。
個人から集団へと快楽が拡張することで、新たな価値観や秩序が生み出される可能性をも秘めています。
快楽の追求は、単なる享楽を超えた深遠な意味をもつのです。

リベルタンの精神

リベルタンとは元々、宗教的義務に従うことを拒否する自由な精神を指す言葉でした。
しかし、やがてその意味は性的な束縛からの解放を求める者を指すようになりました。

リベルタンは、性行為の目的を生殖にあるとするカトリック教会の教義に反発しました。
彼らは、子を産むことを性交の目的とする発想そのものを打ち破ろうとしたのです。

また、リベルタンは情熱的な恋愛をも警戒しました。
恋愛は自己の主体性や自由を奪うものであり、自らの欲望を縛るものだと考えたためです。
そのため、リベルタンは愛情よりも愛欲、つまり肉体的な快楽そのものを重視しました。

要するにリベルタンの精神とは、宗教や道徳、愛情などあらゆる束縛から解放された、自由な性的欲望の追求を指します。
常に新しい快楽を求め、決して一つの対象に縛られることはありません。

リベルタンにとって大切なのは、いかなる拘束からも自由で、能動的な性的快楽を享受し続けることでした。
彼らは性を単なる生殖の手段と見なすのではなく、人間が追求すべき本源的な欲望の発現だと捉えていたのです。

快楽主義の実践

快楽主義を実践するためには、何よりも強い精神力が必要不可欠です。
周りからの誘惑や誤解を恐れてはいけません。
一匹オオカミとなり、多数の意見に迎合することなく、自らの信念を貫く覚悟が求められます。
ボードレールが説くダンディズムの精神、つまり魂の健全性を保つことが大切なのです。

同時に、本能に素直に従うことも重要です。
肉体は自然の一部であり、快楽を享受するのは当然の権利です。
ですので、労働をただの義務と考えるのではなく、自らの欲求を解放する遊びと捉え直す必要があります。

また、娯楽を単なる気晴らしの手段と見なしてはなりません。
娯楽と労働は別物であってはなりません。
本来、娯楽というものは主体的に選択し、発見されるべきなのです。
自分で見出さない限り、それは快楽とは呼べません。

つまり、快楽主義を実践するには、周囲の影響を恐れず、自らの本性に従い、能動的に新たな喜びを探求し続ける強い意志が求められるのです。
労働や娯楽といった日常的な行為さえも、自身の快楽の対象として捉え直すことが大切なのです。

このように、快楽主義は決して受動的な生き方を説くものではありません。
真摯に味わい、発見し、実践し続けることで、初めて人生に意味と充足感が生まれるのです。

結論

本書『快楽主義の哲学』は、人生の本質的な喜びを得るための新たな視点を提供してくれました。
それは、しばしば重んじられがちな幸福ではなく、快楽の追求にこそ真の意味があるというものでした。

快楽は能動的で普遍的な概念である一方、幸福は消極的で相対的なものにすぎません。
快楽を否定する思想は、多くが虚構の上に成り立っています。
真の快楽主義とは、死への恐怖から解放され、退屈を乗り越えることで、現世における新たな喜びを見出し続けることなのです。

そして快楽の本質は、欲求の完全な解放、ときに死や無への回帰をさえ予感させるものです。
個人の快楽が集団の快楽へと拡張することで、新たな価値観や秩序が生み出される可能性をも秘めています。

このように快楽の追求は、単なる享楽主義を超えた深遠な意味をもちます。
リベルタンの精神は、あらゆる束縛から解放された自由な愛欲の追求を説きます。
快楽主義を実践するには、強い精神力と、本能に従う勇気が必要不可欠なのです。

人生に真の意味を与えるのは、幸福の希求ではなく、快楽の発見と実践なのです。
この書は、我々に新たな視野と生き方を示してくれます。
快楽主義の思想は、決して受動的な生き方を唱えるものではありません。
快楽を能動的に探求し、味わい尽くすことこそが、人生を豊かなものにするのです。


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