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「いい先生」ってなんだろうか。

先日、久しぶりに高校時代の友人と会ってきました。

学生時代の友達に会うと、まあやっぱり昔話になってくるんですが、色々話をしているうちに当時の担任の先生(I先生と呼びます)の話が出てきました。

色々と話した後に、まあ、なんだかんだいい先生だったのかもねえ、とあまり考えずに発言したら
友人は一瞬固まって、いや、それは違うと思うわ、とちょっと強めに否定してきたのです。

そのまま話は流れてしまったのだが、帰ってからも少し頭に引っかかっていたので、「いい先生」って何だろうと考えてみました。

私にとってI先生は、めちゃくちゃいい先生でも悪い先生でもなく、ただのおじさんだった印象しかないのですが、
思い返すとその友人は、確かに昔からI先生とはうまが合わず
こっそり持ってきた雑誌を取り上げられたり、何かをしでかして何度も怒られたり、何かと小言を言われていました。
おそらくそういうネガティブな意味での接点が多かったから、いまだにいい先生ではなかった、と感じているのだと思います。

じゃあだから悪い先生だったのか?と思うと、それもどうなんだろうと。

おそらく、先生が彼女の雑誌を取り上げたのもそういうルールだったからですし、
彼女をよく呼びだして怒っていたのも、そうすることが本人にとって良いことだと思っていたからで、
決して彼女を傷つけようと思って取った行動でないことは確かです。

ただ、じゃあいい先生なのか、と言われても、それも違う。。(どっち)

だって事実、10年経った今も、彼女はI先生を全くいい先生だと思ってもないし、
わたしもまあ、よくいる先生だよね、くらいでしか思ってない。
もしかしたらさらに10年後にいい先生になってるかもしれませんが、まあその可能性は低いだろうと思います。

先生は先生なりの良い教育をしているつもりでも、受けている私たちは全くそう思っていない、
じゃあその齟齬が生まれてしまう理由って何だろうと考えた時、一番の原因は価値観の違い、特にその価値観の違いを理解しようとしていないこと、なんじゃないかなあと思いました。

先生と生徒でそもそも生きてきた時代が数十年単位で違うことを考えると、
お互いの考えも価値観も異なるのは当然です。
それはだれでも認識していると思うのですが、じゃあ教えてもらってでも相手を理解しよう、知ろうとしている人ってどんだけいるのかなあと思います。

コミュニケーションの基本である「相手を理解しようとする」こと、これが抜けていたのなら
どうがんばっても、本当に何かを伝えたり、信頼関係を築くことなんて無理だと思います。
それがなければ、ああ、いい先生だったなあ、と振り返って思うこともないんだろうなと。

おそらくそこがI先生にも抜けていたのか、
私たちはあまり先生と信頼関係を築くことができず、友人もネガティブな印象のまま卒業してしまったのだと思います。
まあ当時のI先生の本当の考えはわからないのですが。

これって学校以外でも、社会の中でも同じことが言えると思います。
こんだけ幅広い世代の人がいる世の中なので、当然それぞれの価値観は違いますし、全部理解ができなくて当然。
ただ違うからと言って排除してしまうのではなく、理解しようとして、その存在を認める、これだけでも人との関係がよくなったり、いま世の中で起こってる些細ないざこざも減るんじゃないかと勝手に思ってます。

ともかく、生徒と教師という立場であっても、上司と部下であっても、相手を理解しようとするというコミュニケーションの基本の姿勢は崩さないことが大事だなと感じましたし、
そして私はこれから、というか既に「理解しようとしなければならない側」に回っているので、自分も日々気を付けようと心に刻みました。

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