noteというプラットフォームに辿り着いた
1956年生まれ。神奈川県横浜市出身。東京大学を中退し、現在は藤沢市に居住する「空想家」です。3年前に広告代理店を退職後、家庭菜園を趣味としながら日々を過ごしています。noteというプラットフォームに辿り着いたのは、人生の断片を文章として記録し、発信する場所が欲しかったからです。これからも自由気ままに書き続けていくつもりです。
先日、私が注目している地元のラジオ番組で、街中の小さな書店が閉店する話題が取り上げられていました。店主の語る最後のメッセージに、ふと胸を締めつけられる思いがありました。それは「独立独歩」という言葉。響きは耳慣れたものでしたが、その背景に込められた生き様を想像すると、言葉だけでは収まりきらない広がりを感じたのです。
この言葉に潜む意味に思いを巡らせていた時、映画『シン・ゴジラ』を観た日の記憶が蘇りました。ゴジラは、圧倒的な力で都市を蹂躙する存在ですが、その暴力の中にどこか孤独な影がちらついて見えるのです。映画に描かれるのは破壊と混沌ですが、その中で人間たちが「生きる意味」を再定義しようと葛藤する姿に深く感銘を受けました。
例えば、映画のクライマックスで、人々が一致団結してゴジラに立ち向かう場面。そこに描かれる「誰かのために」という精神には、美徳と狂気が交錯しています。それはまさに、「自己犠牲」の極限。愛する人を守るため、あるいは社会のために身を投げ出す行為。映画の登場人物たちが見せる決意は、私たちの心に「無償の献身」というテーマを問いかけてきます。
一方で、私はこの行動原理に「違和感」を覚える自分もいます。もちろん、感動はします。だが、感動の裏に潜む「大義の美化」という側面が気になって仕方がありません。これを是とするのは、ある意味で危険な思想を助長する側面があるのではないか?歴史を振り返ると、人間は「美化された大義」のもとに無数の命を犠牲にしてきました。そのような歴史を忘れることなく、冷静に物事を見る視点が必要だと痛感します。
ゴジラという存在は、単なる怪獣ではありません。それは自然そのものであり、人類の「エゴ」が生み出した結果です。この映画を観た後、私は心の中で問いを繰り返しました。「ゴジラの視点に立つとはどういうことか?」。それは、自然の怒りを体現する存在としてのゴジラを、ただ恐れるだけではなく、理解しようとする姿勢です。この視点に立てば、「敵」と「味方」の二項対立だけで物事を判断する危うさに気づかされるはずです。
さらに、私自身の性格――血液型B型の特有なのかもしれませんが――常に「全体を俯瞰する」視点を忘れないようにしています。この視点があれば、ただ単に「勝つか負けるか」「生きるか死ぬか」といった単純な選択肢だけで動くことの危うさを回避できるのではないか、と考えます。
映画が終わり、エンドロールを見つめながら、私は次のような言葉をノートに書き留めました。「他者と共に生きるとは、まず自分を知ること」。ゴジラという存在に投影された問いかけは、実は私たち自身の存在理由そのものを問いかけているのではないか。これが私の考察です。