【洗練するということ】
「何度も思考され選ばれた言葉は一回読んだだけでは分からない」
大学院で文章を書くという作業をしてると、たまに何言ってんだこいつ?と疑いたくなる文章によく出会います。もちろん僕より圧倒的に知識も経験も豊富な方々の書く文章ですから、僕の知らないことの方が多くて分からないケースが大半です。ただ、問題なのは僕にとっても自明のことを作者が書いていている場合です。中途半端に知識があるせいで、作者がわざと分かりにくく書いているんじゃないか、と難癖をつけたくなるのは反省しないといけないのですが、それを抜きにしても稀に分かりやすい言葉を使っていても意図が読めないケースがあります。
そのような文章は多くの場合、著者が1つの単語を選びに選んで語彙の柔軟さを文脈に当てはめ、幾重もの知識の伝達を図ろうとしているのです。例えが悪いですが、たった1つのパンドラの箱を開けたらその中に無数の災厄が詰まっていたように、語彙に富む人は言葉ひとつで無数の意味を伝えることができます。例をあげると大学教員でアーティストでもある落合陽一先生なんかは、自身の本に注が大量についているのが特徴です。先生はご自身の本に記す言葉を洗練し、重層的な意味だけでなく多様な見識をも一挙に伝えようとします。そのため膨大な注をつけて補完を行わないと、一般読者には理解が難しいと言われます。
そのような難しい本を読む必要なんてない、という方にはそれまでですが、本を読むという行為はそれ自体人生に深みを与える素晴らしい行為だということは頭の片隅にでも置いておいてください。そして洗練された言葉を使う人は機知に富んだ方であり、そのような人を本を通して理解するということは、自信も更なる深みを持った人間になれる1つの道しるべだと僕は思います。