【ガチ書評】ロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」 第四章
本投稿はロックリー・トーマス著 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」を解説する。
最初から【ガチ解説】にしておけばよかったと後悔している。
今回は第四章「弥助が生きた時代」を取り上げる。
書き出しでは、日本にいた弥助以外の外国人の侍を紹介している。
ただし、黒人の侍は弥助一人であったとしている。
著者の意図として、弥助がどれだけ稀有な存在であったか際立たせたいのであろう。
本章の構成は以下のとおりである。
①弥助の時代の日本
②戦の手法の変化
③侍とは何か
④日本にいた奴隷たち
⑤中国、朝鮮との国交断絶
⑥日本人の精神性
⑦アジアと日本におけるイエズス会
⑧長崎の反映
⑨織田信長の栄華
⑩信長とイエズス会
⑪十六世紀の日本にいたアフリカ人
長いので、サクサクいく。
①弥助の時代の日本
ここはタイトルどおりである。
記述を一行でまとめると、
弥助到着時には、ほぼ信長が日本を統一していたが、まだ少し残っていた。
で済む。
弥助のことはまったく語られない。
②戦の手法の変化
さっくりまとめると、
かつては少数精鋭の武士が刀や弓で戦っていたが、いずれ一万人規模での槍、果てには火縄銃が重用されるようになっていった。
となる。
ここはかなり雑な印象を受けた。弥助が出てこないからだろうか。
③侍とは何か
ここで再度、「弥助は信長に侍の地位を与えられた」と断定している。
そして、「主君が死んだからと言って、必ずしも切腹するわけではなかった」とある。
つまり、弥助が信長の死後、切腹しなかった理由を述べている。
著者が語る弥助像が正確であればあるほど、切腹していないのは違和感が残る。
④日本にいた奴隷たち
ここでは、当時の奴隷がどれだけ日常的であったか語られる。
以下、箇条書きにする。
・日本人の少女奴隷がポルトガルにいた記録が残っている
・日本人海賊が中国や朝鮮で略奪し、奴隷を連れ帰っていた
・アフリカ人も日本人を奴隷することができ、帰国の際に連れて帰ることができた
・弥助にも奴隷が与えられていた可能性は充分にある
・秀吉が奴隷を禁じたが、契約労働者の売買は続けられていた
・鎖国で奴隷貿易は根絶されたが、開国されたら日本人女性が高級娼婦として海外へ売られた
・それは一九二〇年代に法律で禁じられるまで続いた
・外国人は奴隷を連れてきて、日本人に売ることもあった
・奴隷の形態は現在一般的に考えられている形態ではなく、契約労働者のようなものだった
・日本在住の黒人やアジア人の奴隷は、職業を持ち、養子となったり家族の誰かと結婚することもあった
・カトリック宣教師たちは奴隷に反対していたが、布教が奴隷なしでは成り立たないこともわかっていた
・わかっていたので、奴隷の待遇をよくした
・奴隷は考えうる様々なサービスを提供した。
・アフリカ人奴隷は従順さ、体力、体格の良さから高く評価された
ざっくりこんなことが並べられている。
奴隷の境目をあいまいにして、広く薄く伸ばしている印象だ。
弥助が奴隷ではなかったとする著者の見解を裏付けたいのだろう。
一方、弥助がサムライと断定した際も、境目をあいまいにすることで裏付けているのは味わい深い。
著者が仮説立てる際の方法が垣間見える。
⑤中国・朝鮮との国交断絶
一行でまとめると、
日本と中国・朝鮮はいろいろ小競り合いがあって国交を断絶したが、替わりにポルトガルとの交易が始まった
である。
著者の意図としては、大陸経由で黒人が入って来ることはなかったよ、と言いたいのかもしれない。
なお、ここでも弥助は登場しない。
⑥日本人の精神性
前半では、まず神仏習合について語られ、戦国時代には宗教団体が大きな軍事勢力となり、大名はそれを徹底的に滅ぼすことで宗教を国家の道具にしたと語られる。
中盤では、日本人の理解を超えた思想=キリスト教が入ってきて黒人侍を歴史に登場させた、とある。
書き方から「じゃじゃーん!」感がすごい伝わってくる。よく我慢したもんね。
後半は主としてザビエルについて語られ、彼が改宗させたのは数人であったことが書かれている。
(たしかザビエルって日本人にめちゃくちゃ論破されたんじゃなかったっけ。違ってたごめんなさい)
⑦アジアと日本におけるイエズス会
ここではイエズス会側の状況が語られる。
主として弥助を連れてきたヴァリニャーノがどれだけ権力を持っていたかである。
どうやら上から三番目ぐらいに位置していたようだ。すごいね。
中盤では日本のキリシタンの苦情を聞き入れて改善したエピソードもある。
苦情の内容は、
・日本人信者の差別
・ヨーロッパ式が優れているという考えの押し付け
・日本人信者に対する教育の制限
・日本語習得意欲の欠如
であったらしい。日本の会社を買収した海外企業そのものである。
後半では弥助が出てくる。
弥助は日本語ができ、礼儀正しさと身のこなしで日本人を感服させたらしい。
一方、ヨーロッパ人は、手づかみで食事し、風呂に入らず、礼儀知らずで適切な振る舞いを知らないと当時の日本人は捉えていたとある。
ここで著者がやりたかったのは、ヨーロッパ人サゲ、弥助アゲである。
⑧長崎の繁栄
短い。見出しどおり、当時の長崎の繁栄について語られる。
特筆すべき要素はなさそうである。
しいて言うならば「長崎黒人結構おったよ」ぐらいか。
⑨信長の栄華
短い。ここで言いたいのは「弥助を従者または奴隷から侍に変えた男、織田信長」のことである。
信長が流行りものが好きで奇人であり、能力で評価するタイプなので弥助を侍にしてもおかしくないよ! ということだろう。
他は信長の略歴がさくっと書かれている。
⑩信長とイエズス会
とても短い。要約すると、信長はキリスト教に入信したがっていたのではなく、単に珍しいものが好きでよく話を聞いたからで、その気質ゆえに弥助を召し抱えるに至った、と書かれている。
⑪十六世紀の日本にいたアフリカ人
ここでは、弥助の他にも当時の日本にアフリカ人がいたと書かれている。
この時代の日本人は、黒人にとくに否定的なイメージを持っていなかったとある。
なんだろう、この違和感。黒人だからと言って否定的なイメージを持つのが当然なのだろうか。
また、「当時のヨーロッパ人は肌の色が黒いことに否定的なイメージを持っていた」とも特に書かれていないので……うーん。
リチャード・コックスという人物の言であるあらしいが、仏陀の肖像が黒い肌で描かれることもあったことから、黒い肌が崇拝の対象であった可能性もある、としている。
だったらみんな松崎しげるみたいに焼きまくって真っ黒にするはずだし、文献に残る。
……バカめ。白人が想像できないほど黄色人種は日焼けで肌の色が変わるのだ。
当時多くのアフリカ人が日本にいた根拠は、当時から残っている英術作品で、おそらく一五九〇年あたりから狩野派の南蛮屏風に書かれ始めた、とある。
ここまではよい。
後半に、「弥助が名誉ある立場で城中にいたことが、日本人画家が黒人を描写する流行のきっかけになった」と書いてあるが、これにも違和感がある。
芸術家が流行りものを書くのは当然のことであって、名誉ある立場にあったからではないだろう。
これは翻訳版なので原文でどうかかれているか分からないが、この本の中で黒人と弥助と同じ文脈で「流行り」、「流行」という言葉が出てくる箇所はだいたい根拠が乏しく、恣意的な印象がある。
今回は以上である。
次回は第五章「弥助はどこから来たのか」を取り上げる。
五章は文量の割にマジで興味を引かれない箇所である。
弥助信奉者であっても相当キツいと思う。